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塩と飴。

いつものように朝から海まで散歩。いろんな人とすれ違う。

みな赤ちゃんを見ると微笑む。僕自身もそうだけれど、赤ちゃんに向ける笑顔は心から出る笑顔だ。例えば、地下鉄の中でむっつりとスマホを覗き込んでいた人が、赤ちゃんを見てふわぁ〜とほどけるのを見る。たぶんそれは多くの人には見せていない顔だ。大人のこんなにも自然ないい顔を引き出せるなんて、名カメラマンでもできないだろうな。そんなことを思いながら、見てはいけないものを見てしまったような気持ちで笑顔の大人を見る。

海の散歩のとき、人によっては立ち止まって短い言葉を交わす。「おはよう」「元気なの」「かわいいね」赤ちゃんにいろんなことを話しかけるのに合わせて、僕は通訳のように言葉を返す。話がそんなに続くわけでもないので、そろそろというところで「ありがとうございます」と頭を下げて切り上げる。これが何回やっても慣れず、毎回、微妙に緊張する。

もちろん、僕らには目もくれず、無表情のまま歩いていく人もいる。赤ちゃんに気づいたときに備えて、会釈しながらすれ違っても銅像のように反応がない。交流が生まれることに慣れた体が「おっと」と反応して退く。「おはようございます」と声をかけてしまったときは気まずい感じが残り、言わなきゃよかったなと思う。

たぶん僕自身は銅像タイプの人間だ。耳にイヤホンを突っ込み、自分の世界に入り込んで、誰とすれ違っても気にならないように遮断する。にもかかわらず、赤ちゃんを連れてそういう人に関わると小さく傷ついたりしている。

赤ちゃんはといえば、反応するときとしないときがある。しないときの方が多い。大人がどんなに笑顔で声をかけ、反応を引き出そうとしても、表情を変えないままじっと見つめている。そのうち大人の方が気まずくなって交流が終わる。いわゆる塩対応というやつだ。

一方、反応するときには手を振ることが多い。気に入った人の場合、さらに「あー」と声を出したり、後ずさりして「こんな技もできますよ」とアピールすることもある。気に入られようとする気持ちが透けて見えるようで笑ってしまう。神対応というか、こっちは「飴対応」という感じがする。

飴対応するのは、大抵若くてかわいらしい女性が相手のとき。子どもプラザで他のお母さんに接するときが多いけれど、地下鉄でも海でも若い女性には飴が出やすい。

ところが、今朝の散歩ではおばあさんに手を振っていた。もう少し年齢が下の、二人組のおばさま方が親しげに近づいてきたときには塩対応だったのに。あれ、珍しいなと思ったが、振り返ってみると確かにそのおばあさんには好感がもてた。僕も手を振りかえしたい気がしたのだ。

それで、はた、と気がついた。
もしかしたら赤ちゃんには僕の好みが移っているのかもしれない、と。

そういえば、赤ちゃんの塩と飴の使い分けに僕は何の違和感も感じていなかった。どんなに笑顔で近づいてきても「なんか……」と思うとき、赤ちゃんは固まっている。そうでないときには自由に動いている。僕の人を見るセンサーがそのまま赤ちゃんに伝わっているのかも。

そういう以心伝心的なつながりは、おかあさんとの間にだけあるものだと思っていたから、おとうさんともあるのかもしれないと思うとちょっとうれしく、また恥ずかしい気もした。もっとおおらかに人のことを見られたらいいのにな。そうは思うけれど、たぶんそんなに変わったりはしないだろう。

僕の心が出す塩と飴を赤ちゃんがなめて表に出す。
その顛末を、僕自身が引き受ける。

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澤 祐典
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