蕎麦屋の娘
私は蕎麦屋の娘でした。
蕎麦屋といっても、蕎麦だけでなく、うどん、丼物など、メニューは色々、町の食堂といった感じです。
物心ついた頃には、お店にテレビがありました。
遊び場はいつもお店。テレビから流れてくる歌謡曲に合わせて唄うのが、遊びでもあり、日課でもあり、とにかく毎日、唄っていたように思います。
お店は商店街の入口にあり、右隣は自転車屋さん。自転車の修理をするのを見るのが面白くて(特にパンクの場所を見つけるために、水の中でブクブクさせるのを見るのが大好き)、いつも仕事の邪魔をしていました。
左隣は履物屋さん、裏に小さな部屋があり、そこで下駄の鼻緒をすげたりしているのを見るのも面白い。
鶏肉専門店は丸ごとの鶏を捌いて、色々な部位に分けていく、その見事な包丁捌きはいつまででも見ていられます。
昭和30年頃です。
吉原も近かったので、アメリカ兵と日本人の女性が連れ立ってお店に来る事もありました。子供心に見てはいけないような気持ちがして、隠れたのを覚えています。
店には、使用人がたくさんいて、みんな良く働いていました。
休みは盆と正月だけというような時代です。
今では考えられない事ですが、いつか暖簾分けをしてもらうのを励みに一生懸命働いていたと思います。実際に暖簾分けをしてもらって、自分の店を持った人も何人かありました。
そのうちの一人が「タケさん」です。
タケさんは、背が高くて、骨格のしっかりした人でした。
近眼で度の強い牛乳瓶の底のような、丸いメガネをかけていました。
とても気のいい人で、何でも「あいよっ!」と引き受けてくれますが、失敗談も多いという人物です。
お店で一番高く出前の丼を重ねる事ができる人でしたが、ある日、6段くらい重ねて出前に行ったのですが、都電の線路でつまづいて自転車ごと倒れ、大変な騒ぎになった事がありました。
とにかく、毎日が賑やかなそんなところで育ったのに、今は鳥取のお店はなーんにもない静かな所で暮らしています。