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「小説でもどうぞ」落選集② テーマ「眠り」

 安藤は五四歳で独身、これまで女性と交際した経験は一度もなく、女友達と呼べる相手はいない。日中は安月給の会社員として働き、仕事終わりには真っ直ぐ自宅に戻る。唯一の趣味は寝る事で、時々見る夢の微かな記憶を振り返るのを些細な楽しみとしていた。  

 しかし、ある日突然、安藤の夢の中に若く美しい女性が現れるようになった。 ミカというその女性は、黒髪に白い肌、良く通る声を持つ女性だった。安藤は毎晩ミカの夢を見た。

 ミカの笑顔、語りかけられる言葉、肌のぬくもりは安藤の現実を忘れさせた。しかし、忘れる事はできなかった。常に夢の中だと感じさせていた。何故なら、ミカと合う夢の中では、どこからか自分のイビキが聞こえてくるからだ。不規則で耳障りな深いなイビキだった。ミカとの楽しい一時でも、その音が「これは夢だ」と感じさせていた。

  ある晩、安藤はミカと公園を歩いていた。彼女の手の温もりがリアルに感じながら心地く包む夜風は、ミカの髪を優しく揺らしていた。この静かな夜にミカの髪が揺れる音が聞こえるようだが、イビキがその音を遮っているように感じた 。
「現実と夢って、どうやって区別してる?」
安藤はふと、彼女に問いかけた。 ミカは少し驚いた様子を見せたが、すぐに微笑んで答えた。
「どうって…それは簡単でしょ? 目が覚めたら現実、寝ている間が夢よ。」
「そうだよね、普通はそう思う。でも、夢がこんなにリアルだと、時々分からなくなるんだ。特に、自分のいびきがこうして聞こえてくるとね。」
安藤はミカに笑いかけた。
「ねえ、ミカ、君も聞こえるかい?僕のいびきの音が。」
ミカはその問いには答えず、安藤を見つめていつものように微笑み続けた。彼女の瞳には何かを秘めたような輝きがあり、安藤をじっと見つめていた。無言のその微笑みが、安藤の中に不安を残したが、それ以上問う事はできなかった。

  ミカと過ごす時間が増えるにつれ、いっそのこと現実を捨て、永遠にこの夢の世界で生きていければいいとまで願い始めた。現実世界には何の希望もなく、ただ孤独があるだけだった。しかし、夢の中にはミカがいる。彼女と一緒に過ごす楽しい時間を手放したくないという気持ちが、次第に強くなっていった。  

 そんなある日、安藤の現実の生活に変化が起こった。仕事帰りに立ち寄ったスーパーの商品棚の向こうにミカがいた。黒髪にスラリとした体型、間違いなく夢の中のミカだった。
「ミカ…?」
安藤は思わず声に出してしまった。 ミカは微笑みながら安藤を見つめていた 安藤は一瞬、現実と夢の境界が崩れたような感覚に襲われた。夢の中の存在が現実に現れることなど絶対にあり得ないはずだ。自分にそう言い聞かせながらも、心臓は高鳴っていた。その日から安藤は現実でミカの姿を見るようになった。駅の向かいのホーム、食堂のカウンター、交差点のガードレールに腰掛けて彼女はこちらを見て微笑んでいた。
「どうして…ここに?」
夢でしか会ったことのないはずのミカが現実に現れることなど絶対にあり得ない。それでもミカは確かに現実にいた。疑いながらも安藤は現実で会える喜びを感じていた。

  ある夜、玄関を開けるとミカが立っていた。ずっと前からここで生活しているかのような自然な微笑みを向けている。
「おかえりなさい」
彼女は柔らかな声で言った。 安藤は驚きながらも意外と冷静な自分を感じていた。夢の中の存在が現実に現れるはずがないのに、現実にミカはここにいる。
「どうしてここにいるの?」
安藤は問いかけてみた。
「何言ってるの、私たちはずっと一緒にいるじゃない。」
ミカは一層微笑みながら当然のように言った。 その瞬間、安藤は自分の現実と夢の壁がゆっくり静かにが崩れ落ちていく感覚に囚われた。夢でミカとあう時に聞こえているイビキが聞こえているように感じた。イビキが空耳なのか、実際に聞こえているのか、安藤に分からなかった。
「私のことをもっと知りたくない?」
「君は夢の中の存在だ。現実に存在するはずがない。」
安藤はそう言いながら、自分の言葉が空中に浮いたままミカに届いたいないように感じていた。少し間をおいて彼女はゆっくりと首を振った。
「いいえ、私はあなたの夢の中だけの存在じゃないの。あなたが思っている以上に、私はもっと深いところにいる。」
「深いところ…?」
「私はあなたの夢の中の存在であり、あなたも私の夢の中の存在よ。現実と夢の境界が曖昧になったのは、あなたがそれをのぞんだから。そして私もそう望んでいるから」
ミカの言葉は何も抵抗もなく受け止めたように思えたが意味が分からなかった。 安藤はミカの言っている事を理解しようと考えてみたが、もう何も考えられなくなっていた。 ただひとつ、どこからかイビキの音が聞こえているのには気付いていた。
「あなたが現実だと思っている世界も夢の一部なの。あなたはもうとっくに夢の中で生きているのよ。」
「そして夢はいつか覚めてしまうものなの」
「夢が覚めてしまったら、もうミカとは会えなくなってしまうのかな?」
と安藤が口にだそうとした時 ミカは人指を安藤に口に静かにおいて、消え入りそうな程の小さく囁いた。
「おやすみなさい」
ミカの言葉を最後に、安藤の意識は薄らぎ景色も白く消えていった イビキの音は徐々に小さくなり、やがて無いも聞こえなくなった。 

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