
「小説でもどうぞ」落選集③ テーマ「演技」 タイトル「密室劇場」
妻と愛人は過剰なまでに熱っぽく演じている。
その姿は、一流の女優のように完璧だ。でも私は理解できなかった。 浮かぶ虚無感を振り払おうとする。それでも、心に芽生える二人の過剰な演技の意図は分からなかった。
静寂に響く交響曲でも、私にとっては義務的行為となっていた。触れた肌の温かさや、漏れる声に興奮を覚えることはもうなかった。かつて暖かな温もりを秘めていた初夏の森、霧の向こうの新鮮な果汁が溢れる泉。それらをなぞる指先は結露で濡れた窓ガラスをなぞるような無意識な行為だった。
私は義務的に反応した中心部を起点に、小さく円を描いてみる。すると妻も愛人も、甘美な息遣いで艶艶を紡いだ。魂の器は大きく反り返り、微かな潤いを湛えた唇から一筋の光が零れるように輝き、秘境の奥に生命の泉が溢れるかのような艶めきが広がっていた。あまりに大袈裟だ。若いころの自分ならともかく、いまや54歳の中年だ。体力も持続力もなくなった船漕ぎで、こんなに感激されるはずがない。これは演技だ。
ある夜、愛人のマンションで、奇妙な光景を目にすることになる。私達と移す鏡の中では、現実よりも更に大げさな演技を繰り広げている愛人がいた。肩は大きく反り返り、瞳は深い闇の中へ閉じられ、震えるような嗚咽は鏡の静寂をも震わせる幻の音となって響いてきた。
そして鏡の中の自分もそうだ。まるで「理想的に満足に答える男」を完璧に演じる俳優のような流麗さだった。鏡の中では情熱的に愛人を抱き寄せ、快楽の波間に漂いながらも、その唇には安堵感じさせる微笑を絶やさない、まるで写実画から抜け出したような完璧なる男を演じていた 鏡の中の私は「ああ快感で狂ってしまいそうだ」 と囁いていた 「言ったことないぞ、そんなこと!」 私は声を張り上げた。
けれども、鏡の中では構わず織り続けていた。 「身体が溶けてしまうよ。」 愛人も一層妖艶に蠢く そして私は突然か鏡に吸い込まれた。そこは現実とは一転して幻想のような劇場だった。舞台には「浮気夫」と「官能的な愛人」の看板が掲げられ、観客席には無数の人々が座っている。彼らは拍手喝采を向けていた。 私は意思に反して何故か歓喜に答えて観客に手を振りながら愛人を見つめている 「君は人生を彩る旋律だ!」 「何言ってるんだ俺は!」と内心叫びながらも、私は役を演じ続けた。観客たちの拍手はさらに大きくなった。
そこに突然、舞台に妻が登場して観客に向かってお辞儀をした。 「この作品、いかがでしたか?次は、もっとドラマティックなものをお届けします。」 「待て!これは何なんだ!」 叫んだと同時に舞台が暗転したかのように景色が一転した 私はリビングでくつろいでいた 携帯電話が鳴る。着信は知らない番号だったが、私は迷いながらも着信を押した。 受話器の向こうから聞こえたのは、興奮した男性の声だった。 「いやあ!感動しました!あの演技、最高でしたよ!ぜひ次回作も楽しみにしています!」 「次回作?」 私が続けて何かを言おうする前に電話は切れた 気がつくと妻が横にいて私を見て微笑んでいた。 「あなた、次回作はもう少し台本を覚えてきてね。アドリブばかりで監督が困ってたわよ。」 「……台本?何の話だ?何なんだ!」 妻はさらに微笑みを深めると、リモコンを手に取った。そして、壁に取り付けられた私の記憶に無い大型スクリーンを操作する。 すると画面には、私と愛人が映し出された。羞恥なセリフ回し、観客の拍手喝采――すべてが収録されていた。そして、画面右下には文字が表示されていた。 「密室劇場』不倫カップル編:配信中(高評価4.9)」 「おい何だこれ……これは俺じゃないぞ!」 「別にいいのよ、大丈夫!演技って楽しいでしょ?」 妻の声が耳元で響く。彼女はスクリーンを指差しながら続けた。 「ほら、見て。次のシーズンの予告もう出てるわよ。」 予告に映し出されたのは、私が妻と愛人の間に挟まれ、陶酔の波に飲み込まれながら揺れる自分の姿だった。被せるようにモニターの奥から大きく文字が映し出させる「シーズン2:究極の愛の三角形」 私は何か叫んだ。しかしテレビの轟音に飲み込まれたのか、声を発する事ができなかったのか、言葉は深い闇に吸い込まれて私の耳にも届かなかった。
そして、妻といつの間にか現れた愛人はソファーで並んで座りポップコーンをつまみ始めていた。 「本当にいい趣味でしょ?この番組、大ヒットしてるのよ!」 と妻が私に向かっていうと 「次はもっと過激にしないとね」と愛人が口を挟む。 逃げ出そうとした瞬間、部屋のドアと窓は影の中に消え失せ、視線の先には観客が歓喜の声を渦のように響かせていた。私は舞台の上に立っていた。 妻と愛人は同じ微笑みを浮かべながら言い放った。
「さあ、演技の時間よ。」