虐殺はなぜ許されないのか
1.不毛の大地
私は受験に失敗してしまったので、この1年を無駄にしてしまったことになる。
しかし、だからと言って1年前からまったく成長していないわけではない。
1年前まで、なんの根もはっていない不毛の大地だった所には、何本かの木が小さく目立っている。
最終的にどれほどの数が植えられ、花が咲くのにどれほどの時間が掛かるかわからないが…。
2.結局現代文が一番大事
それらの木の1つに、文章に対する興味というものがある。
これは、何もない所から生えたわけではない。
大学時代には、学問をする身として恥ずかしくない量と内容とを確かに読んでいた。
しかし、何の記述も残さずに、ただ乱読していたので、根腐れしてしまった。
社会人になってからも、社内報の自由記述欄を埋めるために、1ヶ月に1,2冊は読んでいたが、それで根が張れるほど、木は小さいものではなかった。
上記した通り、去年の1年間で、読書に目覚めたというわけではない。
大学受験の勉強をしていく上で、初めて「文章をどう読むのか」を、十分な熱意を持って検討することができた。
恥ずかしながら、高校生、大学生、社会人のいずれにおいても、その問題を検討することがなかったのだ。
そのため、今、どのように書いて、読むのかという根っこの部分を、さくりさぐり広げている所である。
3.確認されない死の中で
その最中、つまり大学受験の問題集を広げている時に、ある文章にあたった。
それが石原吉郎『確認されない死の中で』である。
作者は、シベリア抑留という実体験から、数多の死を確認し、誰の死にも参加できず生き残った。
それらの体験の中で作者は、虐殺の恐ろしさは、大量の人間が殺戮されるところにあるのではなく、死が一人一人の死でなくなるところにあると指摘している。
死において、自立できず、不特定の集団の死と見なされることが絶望であり、死においては一人一人の名を呼ばれなければならないのである。
我々は、ニュースを通してウクライナの現況を知る。
しかし、統計的に何人が死亡したと聞かされても、それはただの数字でしかない。
彼らの多種多様な生き様が、ただの死人として一くくりに数字として表現されてしまうのだ。
これは、生存者の不遜である。
これ以上悲惨なことがあるだろうか。どうしてこんなことが…。
4.いつまでも不毛ではない
戦争が終わった後のウクライナは、不毛の大地よりも問題が多いのかもしれない。
ガレキが、死体が、地雷が、復興を阻んでしまう。
しかしそれでも、もう一度根を強く張って、根気よく育てていけば、必ずいつかは花が咲くはずである。
そのためにはまず、この非道な行いを終わらせる必要がある。
今後、一人の死人も出ないことを祈る。
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