語彙力消失ヲタクと余情~ガルパンおじさんの招待~
1.用語の定義
語彙力消失ヲタクと余情の関連性について考えていく上で、語彙力消失ヲタクとは何か、余情とは何かを明らかにする必要がある。
語彙力消失ヲタクとは、自分の推しなどと接するにあたり、自らの感情を言葉を用いて表現できないことを示すことで、自分の語彙力では表すことのできない深遠な感情が、自らのうちから湧出していることを表現する技法、あるいはこの技法を用いる者である。
小難しい定義は良いとして、2つの例を出そう。
1つ目は、語彙力消失ヲタクとして最も有名な田原坊の名歌(?)である。
彼が松島に訪れた際の俳句が以下である。
俳句の技巧などがまったく度外視されているにも関わらず、後世まで残っているこの17文字は、語彙力消失ヲタクの原点であり頂点であると言って過言ではない。
このような優れた俳句だけではなく、日常生活にも語彙力消失は溢れている。
2つ目の例として、僭越ながら私の実体験を述べることとする。
これは友人に『ガールズアンドパンツァー』(略称:ガルパン)という戦車アニメの良さを聞かれた時の話である。
このように、自らのアニメ体験を適切に言語化できず、ガルパンはいいぞおじさんになってしまった。
こうした例は、枚挙にいとまがない。
では、余情とは何か。
大辞泉には以下のような定義が書かれている。
これだけだとわかりにくいので、山本正和『生存のための表現』から引用する。
このように、抱いている感情と言葉にした表現との不釣り合い、感情の優勢が余情である。
これは、確かに語彙力消失ヲタクを表している。
日本人が連綿とつないできた「心の表現」が、今も我々の深奥に根付いているのである。
2.なぜ語彙力を消失させるのか
なぜヲタクは語彙力を消失させるのか。
この問いに対する解答が、上掲した『生存のための表現』に記載されている。
つまり語彙力消失は、自己顕示抑制の結果である。
自らの感情を、言葉で表現できるという不遜を排し、他のヲタクと追随することで、本来自己顕示の萌芽である文章化を停止しているのである。
感情は、完璧に文章で表現できるものではない。
にも関わらず、傲慢にもそれを表現しようというヲタクは、自己顕示という堅牢な檻に閉じ込められてしまっているのだ。
語彙力消失は決して、語彙が足りないから、言語化する力が足りないから、生じるものではない。
つまり、ヲタクとしては、どんなにガルパンが面白くても、ガルパンはいいぞと答えるのが正解なのである。
ガルパンはいいぞ。