語彙力消失ヲタクと余情~ガルパンおじさんの招待~

1.用語の定義

語彙力消失ヲタクと余情の関連性について考えていく上で、語彙力消失ヲタクとは何か、余情とは何かを明らかにする必要がある。


語彙力消失ヲタクとは、自分の推しなどと接するにあたり、自らの感情を言葉を用いて表現できないことを示すことで、自分の語彙力では表すことのできない深遠な感情が、自らのうちから湧出していることを表現する技法、あるいはこの技法を用いる者である。

小難しい定義は良いとして、2つの例を出そう。

1つ目は、語彙力消失ヲタクとして最も有名な田原坊の名歌(?)である。
彼が松島に訪れた際の俳句が以下である。

松島や
ああ松島や
松島や

『松島図誌』

俳句の技巧などがまったく度外視されているにも関わらず、後世まで残っているこの17文字は、語彙力消失ヲタクの原点であり頂点であると言って過言ではない。

このような優れた俳句だけではなく、日常生活にも語彙力消失は溢れている。
2つ目の例として、僭越ながら私の実体験を述べることとする。
これは友人に『ガールズアンドパンツァー』(略称:ガルパン)という戦車アニメの良さを聞かれた時の話である。

友「ガルパンってどこが面白いの?」
私「…ガルパンはいいぞ。」
友「どこが良いの?」
私「………ガルパンはいいぞ。」

このように、自らのアニメ体験を適切に言語化できず、ガルパンはいいぞおじさんになってしまった。
こうした例は、枚挙にいとまがない。


では、余情とは何か。
大辞泉には以下のような定義が書かれている。

1.あとまで残っている、印象深いしみじみとした味わい。よせい。
2.詩歌などで、表現の外に感じられる趣。

『大辞泉』第1版2733頁

これだけだとわかりにくいので、山本正和『生存のための表現』から引用する。

むかしから日本の短歌の世界では、心と詞(言葉)の釣り合いということが繰返し考えられています。
その場合、短歌というものは、心が余って詞が足りないのがよろしい、というのが大多数の意見であります。
<中略>
要するに、心がたっぷりしていて、詞が足りないぐらいのもの、これを余情といいますが、…

『生存のための表現』山崎正和

このように、抱いている感情と言葉にした表現との不釣り合い、感情の優勢が余情である。


これは、確かに語彙力消失ヲタクを表している。
日本人が連綿とつないできた「心の表現」が、今も我々の深奥に根付いているのである。

2.なぜ語彙力を消失させるのか

なぜヲタクは語彙力を消失させるのか。
この問いに対する解答が、上掲した『生存のための表現』に記載されている。

心と詞を対比した日本の歌人の真意は何であったかを考えてみますと、ここでいわれている詞というのは、いわば表に現われた表現の自意識、もっというならば、そこに現われた自己顕示の匂いなのです。
いかにもけばけばしい詞を使って、どうだ、うまいだろう、または、どうだ、面白いだろう、という意識が表にちらつくことがいけない、というのが、いわばこの伝統的な短歌論の骨子ではないかと思います。

『生存のための表現』山崎正和

つまり語彙力消失は、自己顕示抑制の結果である。

自らの感情を、言葉で表現できるという不遜を排し、他のヲタクと追随することで、本来自己顕示の萌芽である文章化を停止しているのである。
感情は、完璧に文章で表現できるものではない。
にも関わらず、傲慢にもそれを表現しようというヲタクは、自己顕示という堅牢な檻に閉じ込められてしまっているのだ。

語彙力消失は決して、語彙が足りないから、言語化する力が足りないから、生じるものではない。

つまり、ヲタクとしては、どんなにガルパンが面白くても、ガルパンはいいぞと答えるのが正解なのである。

ガルパンはいいぞ。



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