【ガストロノミー】秋の夜長のホットワイン Short Story
このお話は【ガストロノミー】のある日のサイドストーリー、大河原弓彦目線のお話です。
※2017年のAGFで配布されたペーパーと同一内容になります。
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秋の夜長のホットワイン
大河原弓彦です。みなさん、秋の夜長、いかがお過ごしですか?
僕は安いワインを買ってきて、自分でグリューワインを作って楽しんでいます。甘くスパイシーなホットワインを飲みながらクラッカーをつまみ、ストーブの前で雑談をする時間は何ものにも代えがたい貴重な時間です。
しかし、そんな静かで深い夜を邪魔する男がやって来たようです──
「君たち!」
亜蘭はいつになく怒った顔で、ずかずかと皆が集まるリビングに入ってきた。
「なんだい、亜蘭。何をそんなに怒ってるんだい?」
「弓さん、静也、そして十影。君たち、いつからここに?」
「30分ほど前かな。ここでグリューワインを飲みながら、雑談をしていた」
静也が穏やかに答える。
「そうか、では問おう。私の、エスカベッチェを知らないか」
「知らないぞ、そんなもの。どこで落としたんだ?」
十影が眉を寄せ、険しい表情を作る。
「落としていない。キッチンの戸棚に置いてあったんだが、誰も見ていないか」
亜蘭の問いに僕たちは揃って首を振る。
「亜蘭、その、エスカベッチェとは何なんだい?」
「君たち、美食倶楽部の会員のくせにエスカベッチェを知らないのか?」
亜蘭は驚いた顔になった。
ということは、どうやら食べ物なのか。
確かに美食倶楽部の人間として、知らない食べ物があるのは恥ずかしい。
「その……なんだ、一応確認したんだ。食べ物のほうのエスカベッチェなんだな?」
この質問から察するに、どうやら静也もエスカベッチェを知らないらしい。
「食べ物じゃないエスカベッチェがあるのか?」
再び亜蘭が驚いた顔になる。
「……もちろんだ。エスカベッチェという哲学者がいる。いや、法律家だったかな?」
静也は目線をそらしながら、あいまいに答える。
「それは知らなかった。どこの国の人だい?」
「く、国は関係ない。国際人だからな」
「そうなのか? スペイン人ならまだ分かるが」
「うん、まあ、国籍的にはスペインかな?」
「ふーん、それでもかなり変わった名前だ。学校時代はさぞやイジメられただろう。それで、私のエスカベッチェを見なかったか?」
「そんなもの見ていない」
静也はきっぱりと首を振った。
「本当に? 君たちのことだ。ワインだけでは我慢できずに、深夜のキッチンにおつまみを漁りに行ったに決まっている。その時、棚にエスカベッチェがあったかどうかだけ教えてくれ。彼女が食べたがっていたから、わざわざスペインから取り寄せたものなんだが」
すると、すぐに十影がテーブルを指さした。
「そんなものは知らん。確かにおつまみが欲しくなってキッチンを漁ったことは認めるが、持ち出したのはクラッカーとクリームチーズだ。お前も食うか?」
「ああ。どうせなら、グリューワインも頂こう。今夜も弓さんのお手製なんだろう?」
「そうだよ。赤ワインで作るのが定番だが、あえて白ワインにしてみた。シナモンスティック1本と丁子少々、マーマレードを一さじ、そして薄くスライスしたリンゴ、お好みでハチミツを加えて、軽く加熱。この時、決して沸騰させてはいけないよ」
「リンゴを入れているのが、オリジナルレシピなんだね」
私は魔法瓶に入れていたホットワインをマグカップに注ぎ入れ、亜蘭に渡した。
「うん、いい香りだ」
ホットワインは冷え症によく効くし、果物とシナモンの香りが気持ちを落ち着かせてくれるので、寝る前、特に風邪の引き始めに飲むと効果的だ。
「そういえば、初めて弓さんがここに引っ越してきた夜もグリューワインを飲んだな。引っ越しそば代わりに、と弓さんがキッチンで作ってくれた」
亜蘭がそう言うと、十影も頷いた。
「俺も覚えている。とても寒い日で、確か初雪が降った夜だった。あれから何年になるんだっけ?」
「うーん、もう10年くらい4人でいっしょに住んでいるような気になっていたけど、まだ数年なんだよな」
僕はそれまで学生が住むような狭い下宿に住んでいたけれど、上司に「いいかげん、まともな住居に引っ越しなさい」と言われて、それでここ、ラセンビルの住人となった。ここがまともな住居かどうかという点においては大きな疑問が残るが、美味しいものを食べられる最高の環境には違いない。
「俺は弓さんが作ってくれるホットワインが世界で一番おいしいと思っている」
静也がうつむきながら、嬉しいことを言ってくれる。
「うんうん、秋の夜にワインを飲みながら、友と語らう……こんな素敵なことはないね……ところで」
亜蘭がテーブルの上にあった缶詰を指さす。
「これなんだけど」
「ああ、それか。ワカサギの南蛮漬けだ。戸棚に放置されていた缶詰を見つけて、開けてみたんだ。なかなか美味い。お前も食べてみろ」
十影がなにげなく答えると、すぐさま亜蘭の眉間に深いしわが刻まれた。
「エスカベッチェというのは、魚の酢漬けのことだ。日本で南蛮漬けとも言うんだが?」
「……さあ、もう寝るかな」
僕たちはいそいそとテーブルの上を片づけ始める他なかった──
END
登場人物紹介
オーナー兼探偵 江川亜蘭
本業は探偵、副業は「ラセンビル」内レストランのオーナー。天衣無縫な変人で、「美食倶楽部」の主催者。アヤメの事を面白がっている。
牧師 緑川十影
理性的で知性派な牧師。そのため、アヤメにきつく当たる事もある。亜蘭、静也とは元同級生で、幼馴染の腐れ縁。
弁護士 大江静也
企業弁護士で仕事とお金が好きな効率主義者。仕事のストレスを美食で発散している。意外に面倒見がよく、アヤメの世話を焼く事も多い。
医者 大河原弓彦
大学病院の医師。優しく温厚な性格だが、意外にドSな一面もありアヤメを追い詰めることも。医食同源との考えから、食に造詣が深い。
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