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貴方の前でだけ

 一つ一つは些細なことだと他人は言うだろう。
 卵は白身より黄身が好きだ。というよりも、白身の独特の匂いが嫌いだし、味のような味もしないところも嫌いだ。
 蒟蒻が嫌いだ。だがおでんや鍋に入っている糸蒟蒻は好きだ。尤も、糸蒟蒻を束にして結んだものは嫌いだ。
 流行物は苦手だ。流行っているものの中には良いものが含まれていることも確かだ。それは認める。だが取りあえず流行っているからとその波に乗っかっているような軽薄な人間性が、そして流行の渦中にいる者の一過性に気付いていないその様や、気付いていながら逃げ切ろうとしているその様も、或いは気付いているにも関わらず周囲の状況から踊ることを強いられているその様が、どうしようもなく嫌なのだ。
 思考の癖もある。与えられたものを素直に享受できないのだ。これが正解です、と教えられたものは疑ってかかりたくなる。学問分野の共通言語には一定の敬意を払いたいが、言い換えを許さないその態度には辟易とする。様式美を重んじる格式高い古典芸能に対しては洒落臭さすら感じてしまう。
 何も誰彼構わず喧嘩を売りたいわけではない。だがもし私の主張を聞いて少しでも心の内にもやもやしたものを感じたならば、それは多数派に属している証拠と言って差し支えないだろう。そういう人は実に羨ましい。本心で言っている。
 万事がそういう風なので、物心ついたと同時に悟らざるを得なかった。
 私はどこかズレている。
 このズレというものは厄介で、要するに一般的な物事の認識枠組みと自分のそれが乖離しているため、社会的な正解が分からない、ということなのだ。これは甚だしい生き辛さである。ズレをズレとして認識したとて、この世界が優しくなってくれるわけではない。
 だが生きねばならぬ。喰わねばならぬ。そのためには働かねばならぬ。
 而して、絶え間なく襲い続けるこの生き難さをほんの片時でも忘れるため、私の内に、悪い癖が芽生えてしまったのである。
 それはまたしても、ズレである。
 性欲の話をしたい。私のそれは、ここに限っては大方とズレずに、まぁ昨今その指向性の議論は最早ナンセンスとなりつつあるが、ともあれ女性を指向している。だが単純に裸が見たいわけではない。衣服に隠されたエロス、というものも大半の男性諸君には同意していただけるだろう。そうではない。そうではなく、私は更に一歩踏み込んでしまっている。私の指向は、ズレた隙間から覗くもの、に限定されているのだ。
 よれたブラウスから見える下着の肩紐、ローライズのパンツで屈んだ時に微かに露わになるレース。薄着のボタンとボタンの合間に渡された隙間の橋から垣間見える瀟洒な装飾。夏の日差しに暴かれたその美しいライン。普段は秘められたものが、ふとした隙間から覗く、その神秘性。私はそこのみに性的興奮を覚える。
 必然、私のスマホのブックマークや保存した画像データ、勿論鍵付きだが、にはそういう類いのものばかりとなっているし、男だらけの酒の席ともなれば卑猥な話で盛り上がるのが常であるが、私はほとんどの話についていけない。知ってはいるが共感できないのだ。そのためまた距離を置かれてしまう。尤もこれは悪い面ばかりではなく、通常の状態では女性に対して性的興奮を覚えないため、むしろ会社内ではそういう面では信頼の置ける人物として通っているようですらある。
 私自身はこの性癖についてどうしようもないものとして受け入れているが、妻については申し訳なく思うことがある。何しろ普通の交渉が出来ないのだ。一般的にそういう場合は風呂なりシャワーなりを済ませた後、裸同士となり始まるものだと認識しているが、私はズレがなければ興奮しない。そのため、着衣は必須である。無理めな体位を取ったさいなどは事後、冷静になり先程は痛くなかっただろうかと遅すぎる心配をすることも多い。だが妻にとっては私が初めての男であったようで、そういうものかと思っているのか今まで不満を口に出されたことはない。普通を経験させてあげられないまま今生を終えていくのかと思うと、この特殊性に巻き込んでしまったことに対して大変申し訳ない気持ちになるが、私にはどうすることもできない。妻を愛しているため、他の男と普通の交渉をしてみては、と提案することなどできはしない。
 愛。そう、愛だ。よくよく考えてみると、私の性癖は一般的な生活態度では満たされることはとても少ないものだが、妻と付き合いだしてからはそこが干からびることがない。妻は一般と比較すると多少着こなしにルーズなところがあり、いや、妻の名誉のためにも申し添えるが、彼女は立派な女性だ。家事も仕事も申し分なくこなしてくれる。その上こんな私を好いてくれる慈悲深い人だ。ただ、多少、その、下着類については一般よりも少しガードが緩いことが多く、そのたびに私の欲求は潤い、満たされていくのだ。結婚して10年以上経つが、私たちは没交渉とは縁遠い。妻の方でも喜んでくれているようで、夫婦仲は順調そのものだと言える。まぁ子どもがいないことも影響しているだろうが。兎も角、妻がいれば私は他に何もいらず、また、妻がいなければ私は疾うの昔に何かしらの罪を犯していたに違いない。そういう意味でも私は妻を愛しているし、妻がいなければこの社会で生きていられない。少々ズレているかも知れないが、これは愛と呼んで良いだろう。
 実社会で奇異の目で見られ、自己の認識にズレを感じても、家に戻れば妻に潤され、満たされ、そして愛し合うことができる。
 もしかすると、このズレが私に愛を与えてくれたのかも知れない。



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