見出し画像

帰りたい場所

 ここは何処だ。
 私はただひたすらに階段を上っている。足下の他は墨を垂らしたような闇。湿った生ぬるい風が肌を舐め上げていく。そしてこの、酷い悪臭。至る所で何かが腐っている。それは決して妄想ではないだろう。後ろだけは決して振り返るまい。強迫観念にも似た感情が私を支配する。
 私はポケットの紙片を撫でる。
 この怖気を震う世界において、たった一つの拠り所。
 これが何かは分からない。ただ、何処かで誰かに言われたことは覚えている。
 これを肌身離さず持っていること。そうしたらきっと助けとなってくれること。決して、決して手離してはいけないこと。
 これだけを頼りに、私は階段を上る。一段、一段と、上り続ける。


 ひた、ひた

 ある時から、こんな音が私の背後から聞こえるようになった。

 ひた、ひた

 振り返ってはいけない。
 絶対に。
 それは何かの足音だから。


 それは、ひた、ひた、と少しずつ、着実に私に近づいてくる。私は直ぐにでも階段を駆け上がり、一刻も早くこの足音から遠ざかりたいと思った。
 だが、私の足は、一段、一段としか歩むことができない。ぞわぞわとした不快な感覚が背後から徐々に距離を詰めてくる。悪臭が、濃くなってきている。

 そうしている内に、その足音は、私の直ぐ後ろに。
 何かが、私の直ぐ後ろに、いる。
 服の裾が、くいっと、引っ張られた。
 生ぬるく腐臭のする声が、何かの声が、私の内耳に入り込み、身体を浸食していく。

「カエ、ロウ……」

 飛び上がり一目散に逃げ出したいのに身体が動かない。全身の細胞が振り返ってはいけないと叫んでいる。
 かえ、ろう……帰ろう? 帰ろうと言ったのか。何故。何処に。喋るのか。無意味な問いがぐるぐると駆け巡る最中、ポケットの中でぼぅっと光るものが目に入った。
 それは先の紙片であった。弱々しい光はその範囲に次の一段を照らした。それは道しるべのように進むべき方向を照らしてくれている。恐怖以外の感覚を久しく忘れていた気がする。身体の奥深くに、僅かな熱源を感じた。
 こんなところで、挫けてなるものか。
 こんな化け物に、連れて行かれてたまるものか。
 私にはまだ、やることがある。
 上る足に力を込める。
 だが……
 それが何なのか、思い出せない。
 何故、私はここにいるのだろう。
 何のために、ここにいるのだろうか。

 行けども行けども終わりは見えない。
 化け物はひたひたとついてくる。
 私の直ぐ後ろで、裾を引き、帰ろう、帰ろうと腐臭と共に囁き続ける。
 何処に帰ろうと言うのだ。こんな世界で、背後にきっと広がっている荒涼とした奈落の一体何処に。
 何故私なのだ。
 そしてお前は、誰なのだ。


 どれくらいの時間が経っただろう。遠くの方に、微かな光が見えた。
 あそこだ。あれこそは希望の光。この腐った闇から引き上げてくれる光の扉。共鳴するように紙片の光量が増す。そうだ。あそこに違いない。あそこまで行けば、こんな闇とはおさらばだ。
 私は我を忘れて階段を駆け上がる。今までが嘘のように身体が軽い。

 ついに目前まで来た。周囲を埋め尽くす闇の中、その大いなる光はまるで切り取ったかのようにぽっかりと白い空間を作っていた。
 ふと、思い至る。
 いつしか化け物の足音が止んでいる。不快な裾の引っ張りも、なくなっている。
 これで良いのだ。やっとだ、と思いながら私はその光に指を差し入れる。

 刹那、走馬燈のように私の記憶が蘇った。

 私には恋人がいた。
 笑顔が素敵な人だった。将来を誓い合っていた。愛し合っていた。これは運命だと思っていた。
 だがそれは私だけだった。
 彼女は、自ら死を選んだ。私に何も告げず、突然。
 納得ができなかった。どうしても彼女に会いたかった。たとい自殺の果てに行き着く先が地獄であろうと、彼女をそこから救い出し、連れ戻すために私もここにきたのだ。
 彼女の後を追って。

 思わず、私は振り返る。

 背筋が凍り付く。
 少し離れたそこにいたのは、醜く爛れた何かだった。顔と思しき球体からは、腐り果て、今にもこぼれ落ちようとする眼球がチロチロと揺れている。だらしなく開いた唇からは、血とも吐瀉物とも判別できない粘液が垂れ流されている。衣服は最早、衣服の体をなさず、力なく伸ばされた両腕から、指から、皮膚だったであろう赤黒いものがぶら下がっている。
 本当に、人であったのだろうか。
 地獄。正に地獄のような存在だ。
 それは死そのものだった。見てはならない、触れてはならないものだった。
 私は心の底から嫌悪し、その化け物を拒絶した。

 その時だ。
 紙片が輝き始める。
 そして巨大で、温かな、それでいて柔らかな掌が、私を包もうと天からやってきた。
 これで帰れるのだ。こんな地獄から。
 最期だ。そう思い私は、化け物の方を見やる。

 手。
 力なく伸ばされた、手だったはずのもの。
 既に壊死しているであろうその指先は、私のいる方角を求め、彷徨い、少しく逡巡し、諦めるように一本ずつ項垂れていった。

 私に甘えようとして、甘えられず。
 頼ろうとして、頼られず。
 伸ばしかけて、諦める。

 それは、彼女だった。
 紛れもなく、愛しい愛しい、彼女の仕草だった。

 私は紙片を投げ捨てる。
 瞬間、あの温かな光は全て消え去ってしまった。
 そして元の暗闇と悍ましい腐臭の中、私は化け物に、否、彼女の方へ、一段ずつ階段を降りる。
 涙が勝手に溢れ出す。こんな姿になってしまった。どれ程の痛みを受けたのか。辛かっただろう。苦しかっただろう。人であったことすら分からなくなってしまった。あんなに可愛らしかったのに。
 一人でずっと、辛かったな。
 今まで気付いてやれなくて、すまない。
 これからはずっと、私が共にいる。
 君がどれほど変わり果てようとも。
 君がそうならば、私も共に、責め苦の果てに腐り散ろう。
 私は、漸く彼女を抱きしめる。

「一緒に、帰ろう。」

 さぁ共に、地獄へ。


参加させていただきました。
ピンクのツツジ、花言葉は『愛の喜び』だそうです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?