「今日の私を、ずっと覚えていて。」(春・切断・誕生)
「私を、撮ってくれない?」
先輩にそう声をかけられたのは、春のただ中のことだった。
僕は先輩に焦がれ続けてきた。長く艶やかな髪。透き通るような肌。鈴を転がすような声音。
この感情の名は。
僕はただ只管に願い続けてきた。この人を、撮りたい。その瞬間を切り取って、僕の写真の中で永遠になってほしい。この切望。悶え苦しむほどの欲求。あえて名付けるとしたら、信仰、だろう。
「僕で……良いんですか?」
先輩は何も言わず、ただ、曖昧に微笑む。
その夜、僕たちは初めて、二人で飲みに行った。サークルの飲み会ではない。あの頃は視線の先にただ追いかけるだけだった彼女が、今、僕の目の前にいる。その唇を酒精で湿らせ、白磁のような肌を少しく、赤らめて。
僕は仄暗い歓喜の絶頂にいた。アルコールのせいではない鼓動。先輩を何らの障害なく、大義名分をもって、網膜の全てで捉えることのできる僥倖。
そう。僥倖。それは気まぐれであって良い。仮令この会合の理由が、僕に写真を撮ってほしいというその理由が、僕にとって何らの価値を有しないものだとしても。受け入れ難く、忌避すべきものであったとしても。僕は先輩の奇跡のような気まぐれに殉じたいとすら思っていた。
先輩は、よく笑った。
呂律が怪しいその鮮やかな舌で、言葉を紡いだ。
それは僕にとって、神託に他ならない。
翌週、桜が舞う中、その日は訪れた。
撮影用に借り切ったアパートの一室。カーテンの隙間から漏れ出でる陽光。あえて明るさを絞ったベッドの上に、先輩は腰掛ける。
静寂の中、一枚、そして一枚と、衣擦れの音が耳を撫でていく。僕は目を瞑り、耳を、鼻を、肌を、内腑もってその空気を得る。まるで皮膚呼吸のようだ。それほどまでにこの空気は、僕を恍惚とさせていた。
総毛立つような震えを表に出さぬよう、この静けさを壊さないよう、何より先輩の世界を、空気を壊さないように細心の注意を払う。
ゆったりとした先輩の動き。露わになった美しい肢体。艶かしく揺れる長い髪。純白の下着とシャツは、薄光に溶け出して行くように。
僕はシャッターを切る。
瞬きより、遅く。
パシャ
パシャ
その一枚ごとに、僕は魂を吸い取られる。
モニターに映し出される先輩に、僕は今持ち得る全てを捧げる。
そして、先輩は鋏を手に取る。それは鋭く、また鈍く光を放ち、先輩の細長い指によく収まった。
もう片方の指先は躊躇いがちにその柔らかな黒髪を持ち上げ、哀れな鋏は少しく逡巡する。
僕はそこではたと気付く。
先輩は髪を切るつもりだ。
先輩は自らその完全性を否定するつもりだ。
喉元まで出かかった声。
やめてくれ。
切らないでくれ。
頼むから、切らないでくれ。
ショキン
無慈悲な音が降る。
僕の真なる願いも空しく、その濡れ羽は切断されていく。
ハラハラと舞い落ちるそれ。僕はそれに、先輩のそれに縋り付きたい衝動を必死に我慢している。あんなに綺麗な髪だったのに。僕の知る誰よりも長く、艶やかなあの黒髪。それが少しずつ、他ならぬ先輩自身の手によって、命を絶たれていく。
更にシャッターを切る。零れ落ちるその一本一本を、撮り逃さないため。
しかし。
何故だろう。
僕はファインダー越しに、認めがたい一つの現象を認めざるを得なかった。
そう。
先輩は切り落とすその一本ごとに、軽くなっていくのだ。
どういうことだろう。古典的な髪を切るというその手法。そこに意味される先輩の聖性を侵犯する一つの厳然たる事実。先輩をして、髪を切るという暴挙に至らしめた、その唾棄すべき事実。
そう。これは謂わば一つの解放なのだ。先輩はこの切断という行為を通して、少し、また少しと、身軽になっていっている。それは発する空気からも明らかだった。陽の光に溶け出してしまいそうだった先輩の輪郭は、今、段々と明確になっていく。白磁のようだった肌には精気が宿り、命が匂い立つようだ。
僕はファインダーから目を離せない。目を離せば、生身の目で先輩を見てしまえば、それは最早、先輩ではないように思えて。
明らかに、明白に今、先輩は新たしく息吹いている。命が、力を取り戻している。先輩はもう先週までの先輩ではない。あの日の先輩はもういない。否。数瞬前の先輩ですら、最早別人となってしまったのだ。
叫びだしたいように思われた。事実、その寸前だった。
だが唐突に先輩は言った。
それは確信をもって、最後の神託だった。
命を全て、使い切らなければならない。
僕は許されたのだ。
先輩を、この写真に閉じ込めることを。
永遠に。
桜が舞い落ちる季節。
僕は今年も一人、それを眺め、花びらを踏みしめる。
あの日先輩が宣うた、否、呪ったように、僕は片時も忘れていない。目の前で鎖を一つずつ外し、生まれ変わっていく先輩は今も、脳裏に焼き付いている。
何年経っても。
誰と出会っても。
横たわった薄紅色の一片一片が、あの日の黒い抜け殻と重なっていく。
僕こそが、あの瞬間に閉じ込められたまま。
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