雨の七夕
雨だ。この一週間、降らせたり止めたりを繰り返していた梅雨前線は、ここに来て大量の雨を降らせることに決めたようだ。線状降水帯に警戒するよう22時55分の天気予報は告げていた。
ここ数年、この時期には大雨が降るようになっている。気候変動の煽りだろうか、明日は七夕なのに織り姫と彦星は今年も会えそうにない。
叩きつけるような雨音を聞きながら京は、今夜は風も強い、もしかしたらスマホの防災アラートが鳴るかもな、ぼんやりと思いながら風呂の支度をしていた。自分のためではない。京は2時間ほど前にすませている。
今夜はどうも蒸し暑い。降り続けた雨のせいで湿度は飽和状態だ。肌に貼り付きそうになったパジャマに不快感を覚えた京は、エアコンを除湿運転に切り替える。
インターホンが鳴る。
「ごめん」
その一言で、京はオートロックの解除ボタンを押す。エレベーターが上がってくるまで少しは余裕があるはずだ。浮ついた心音を抑えるため、京は深呼吸を繰り返す。30回程の呼吸の後、部屋のチャイムが鳴った。
「ずぶ濡れじゃないですか」
「傘をね、店に忘れてきてしまってね」
バツが悪そうに直也は言う。
「兎に角……入ってください」
「すまない」
ややふらついている直也に肩を貸し、玄関に上げる。濡れそぼった男の衣類からは、少し甘い香りがした。酒臭い、熱い吐息が京の首筋にかかる。
直也からの連絡はいつも突然だ。彼は平素は物静かな男で、LINEも滅多によこさない。京も京で、直也が姉の彼氏だからと遠慮して自分からは連絡しない。姉からは、二人は似たもの同士だとよく言われている。年齢は二つ、背は5センチほど直也が上だが、静かに物思いに耽るところや目が悪いところなど、共通点は多い。
ただ、直也は酒好きで、それによって少々距離感がおかしくなることがあった。京の部屋の近くで飲んだ際は、決まって彼に連絡をした。今晩、泊めてほしい、と。初めこそ驚いたが、2年経った今ではそれを心待ちにしている自分がいる。
「お風呂、入ってください。服は洗濯します。乾燥もかけちゃいますから、少し小さいけど僕のパジャマで我慢してください。」
「おぉ、悪いな、何から何まで」
「そう思ってるなら……」
言いかけた言葉を京は飲み込む。
「もう少し早く、LINEをください」
「ん……そうだな……」
ふらふらとした足取りで脱衣所に向かう彼を見送り、シャワーを浴びる音が聞こえてから直也の服を回収する。
シャワーの音は止まない。
洗濯乾燥機の電源を入れ、京はその湿った衣類を抱える。
恐る恐る、顔を埋め、震える肺にゆっくりと、深く、匂やかな空気を取り込んだ。
シャワーの音はまだ、止まない。
京は、そうだった。
級友が異性との恋愛で盛り上がっている最中も彼はそれが分からなかった。恋愛感情が生来薄いのかと思っていたが、そうではないと知るのはそう遅くはなかった。自分の嗜好性に大いに戸惑いはしたが、案外すんなりと受け入れた。というよりは、受け入れざるを得なかった。自分はどうやってもそうなのだから。
ただ問題はあった。彼は誰にもそれを打ち明けていない。姉も両親も、京のことを真っ当な人間だと信じている。非常に奥手なだけのストレートな人間だと。京はこれまで性的欲求こそあれど、恋い焦がれるような感情を人に対して抱いたことはなかった。だからずっと隠して生きていくつもりだった。恋愛や結婚、そういうものは自分とは無縁のものだと追いやることで。家族に対してはずっと罪悪感を抱えていた。
だが、よりによって。
直也と初めて出会った時、京は知った。
これが、恋なのだと。
そして時が経つにつれ、京は思い知った。
姉と直也はいずれ結婚するだろう。その仲むつまじさを目の当たりにして、この恋は、絶対に知られてはならないのだと。
「直也さん、大丈夫?」
中々上がってこない彼を心配して京は声をかけるが、返事がない。
「開けるよ?」
かなり酒が入っていたはずだ。万が一の可能性が頭をよぎる。
恐る恐る扉を開けると、バスタブの淵に頭を預け、寝息を立てる直也の姿があった。
ほっとする、と同時に。
濡れた髪。肌に滴る雫。湯気の向こうに露わになった胸元。京は跪き、直也の顔をまじまじと見つめた。少し赤らんだ、綺麗な顔。自然と、京の黒い瞳から涙が零れた。
なんでこうなったんだろう。
なんで僕はこうなんだろう。
なんで直也さんはお姉ちゃんの彼氏なんだろう。
なんで好きになっちゃったんだろう。
すやすやと寝息を立てる直也を目の前に、京の涙は音もなく落ち続ける。どうせこの人は、お風呂から上がったらそのまま寝てしまうんだと思うと、我慢しなくてもいいような気持ちになってくる。
言ってしまっても良いような気がする。
今しか言えないような気がする。
「直也さん……」
「……んあ?」
言葉にしかけた寸でで、彼は浅い眠りに浮上してくる。
京は慌てて涙を拭い、立ち上がる。
「大丈夫ですか?」
「ん、おぉ、寝てたのか、俺」
「上がって来ないから心配で見に来ちゃいました」
「あぁ……ありがとな」
「お風呂で寝ると危ないですよ」
「ごめん」
後ろ手に風呂場の扉を閉める。洗濯機の回る音がうるさい。
「みや、こ」
「うん?」
「大丈夫か?」
「何が?」
「いや、何か……声が」
こういうところは嫌いだ。
「……風邪気味かも知れないから、先に寝ますね」
「おぉ、ごめん、ありがとな」
脱衣所の扉を閉め、京は窓の外を眺める。酷い嵐だ。雨風は先ほどよりもっと強い。
時刻は0時を回っている。7月7日。七夕だ。
短冊に願いをかける年齢ではない。星空なんて見えやしない。京は、それでも祈る。
この恋が、どうか知られませんように。
この恋が、どうか消えてなくなりますように。
よろしくお願いいたします。