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大晦日松屋を食べる同志へ

時は、2023 年 12 月 31 日。24 歳の私は焦っていた。それもそのはずである。 ここ日本国における最大のイベント大晦日の真っ只中、 私はただあてもなく新宿をひたすらに闊歩し ていた。イヤホンから流れるのは、きのこ帝国の「東京』。
死ぬほどあこがれたこの街で私は、ただただ新宿に飲まれていた。  中国地方の片田舎から上京して半年程の私には気軽に立ち寄れるバーもなければ、電話一本で会え る気心の知れた小洒落た友人もいない。  
そもそもこんな薄汚いジャージを着た根暗を具現化したような男が、華の都東京を歩いていいのだ ろうか?中高大で贅沢に肥え太らせた自意識に押しつぶされながら、光る街の灯りが鋭く私の目を刺した。
蔦屋書店やタリーズコーヒー、ヴィレッジヴァンガード 。高校生の時に片田舎で抱きかかえた「サ ブカル」「都会性」が当たり前のように点在している。
きのこ帝国を聴きながら岡崎京子を読んでい た高校生の私の自意識はなんだったんだ。田舎町にある中途半端な「サブカル」は、めんどくさい自 意識を生成する。気持ちが悪い。
地方の政治家やディべロッパーにはそこの所を考えて都市開発を行ってほしい。ふざけるな。 なんなんだこの街は。 人ごみと焦燥と苛立ち、私の足取りは加速する。そんなことを考えている場合ではない。
もう1時間30分は新宿の街を歩いている。今日は大晦日なのである。このままでいいはずがない。 早く。。。早く。。。2023 年が終わってしまう。

その時私の目に「駿河屋」の文字が私の目に飛び込んできた。幼少期よりアニメオタクの父から深夜 アニメの英才教育を受け続けていた私にとってあの店はもはやポケモンセンターなのである。
人ごみと大晦日の雰囲気から私を癒してくれるのはこの店しかない。 大晦日に行くべき店かと尋ねられると何か違う気もするがまぁいい。やっと目的とよべる物ができた のだ。結構なことだ。  
 大晦日にもかかわらず店内はかなりの人でにぎわっていた。私がいうのもなんだが、観光ならいざ知 らず大晦日に駿河屋でコミックを、フィギュアを漁ろうという神経はまぁ一般的なものではないだろ う。私がいうのもなんだが。。。
アニメやゲームといった「オタクカルチャー」がここまで一般化するとは私が中学生だった 10 年前は 想像もできなかった。いや正確には、身体も精神も頭脳もすべてが脆弱な中学生の頃の私には少なく とも想像できなかった。西にアニメオタクがいれば石が投げられ、東にゲームオタクがいれば烈火のごとき罵声と嘲笑の的にされていた。そんな時代だったのだ。あくまで私の主観だが。。。
2023 年今日において大晦日という点をのぞけば駿河屋でフィギュアを漁る行為は、一般的な若者のそれである。
つまりここにいる若者は私の同志でも仲間でもなんでもない。当たり前である。虚ろな目でごちゃごちゃと店内に陳列されているフィギュアを眺めていると一つ一つはかわいらしく愛らしい。
例えば私の大好きなキャラクター、けいおん!の中野梓。通称あずにゃんのフィギュア は艶らしい黒髪や桃色に染まるきれいな頬が再現され、今そこにあずにゃんがいるような素晴らしい クオリティである。ではあるのだが、インテリアとして考えた瞬間それは、調和を絶対的に破壊する 代物へと変貌する。
想像してみてほしい。コンクリート打ちっぱなしの部屋。間接照明。レコードプレイヤー。小洒落たチェスト。ドライフラワー。あずにゃんのフィギュア。

最悪である。

あずにゃんが大好きな私でも最悪だと思うのである。そうでない人がどう思うかは想像に難くない。 アニメ文化がこれほど発展した今日においてもフィギュアはインテリアとして最悪なのである。 インテリアとしては。 そのようなくだらない物思いにふけりながら、店内を散策してると私は運命の出会いを果たした。
中原岬である。
漫画、アニメ、小説「NHK にようこそ」のヒロイン中原岬のフィギュアをみつけた。彼女は妖艶な笑 みを浮かべ日傘を刺し陳列棚に佇んでいた。学生時代彼女は私のヒロインだった。アニメをみて彼女 の存在にただただ憧れていた。
その彼女がいま私の目の前にいる。

その時、猛烈な独占欲が私を襲った。

彼女を自分の物にしたい。

彼女と新しい 2024 年の朝日を眺めたい。

美しい彼女の白肌をほかの不埒な男に触らせるわけにはいかない。

彼女の笑みは、私だけのためにある。

彼女はインテリアなどではない、私の空虚な日々を染める華なのだ。
そう思いながら値札に目をやると 8900 円の文字が書いてある。おのれ貨幣経済め、資本主義め、私と 彼女との愛を引き裂こうというのか。 しかし、私にも秘策がある。私は、財布の中の楽天カードで資本主義の魔の手から彼女を救い出した。
これが私の切り札なのだ。これで彼女を家に招き入れることができるのなら安いものである。
私は、彼女を抱きしめ抑えきれない愛らしさを感じながら駿河屋を、新宿を後にした。
小田急線にて帰路の途中、私は思い立った。

ご飯を食べよう。

今年最後の夕飯である。何を食べるか、とてつもなく重要である。1年が365日。1日3食と仮定して、1095食。その中で12月31日の夕飯が1番重要であるといっても過言ではない。
よし、下北沢で夕食を食べよう。そう思い立ち下北沢駅で飛び降りた。小田急線の核シェルターかと
見紛うほど長いエスカレーターを登り、ついにサブカルの聖地下北沢に降り立った。
そもそもなぜ下北沢には、劇場やライブハウスや古着屋、スパイスカレー店が大量にあるのだろうか?なぜだろう。そんなことは、教養の乏しい田舎者の私にはわからない。
ただ例えば豪徳寺や新丸子がサブカルの聖地になっているイメージはつかない。まぁそんなものなんだろう。
入った飲食店は、当然松屋である。
何を隠そう私は、松屋のヘビーユーザーなのである。週5回は松 屋で食事をとっている。バファリンは、半分が優しさでできているそうだが、私の体は半分以上松屋 の料理でできていると言っても過言ではない。
今年1年の感謝を松屋に伝え、今年1年を締めくくる 最高の松屋を食べなければならないと思い松屋に入店した。 食券を買い、丸い以外なんの取り柄もない椅子に腰掛け店内を見渡す。
12 月 31 日 23 時 30 分。こんな時にこんな場所に居る者が幸せなわけがない。案の状、店内は不幸で 和気あいあいと盛っていた。

その時私は気づいた。  

ここにいる皆は、不幸を共にする仲間なのである。この牛丼、いや牛めしは、私たちの結束の証だ。
同じ窯の飯を食うという慣用句がある。こんなときこんな場所でともに不幸の渦の中、同じ飯を食ら う者が仲間でないはずがない。同志でないはずがない。
隣に座っている清潔感のなく辛気臭い男子大学生の有線イヤホンから流れているのは、ナンバーガー ルとかアジカンとかそんな所だろう。

彼は、私の仲間なのだ。私は、彼の仲間なのだ。

私の牛めしの番号が呼ばれる。番号で呼ばれてうれしい場所は古今東西牛丼屋くらいのものだろう。

牛めしを口の中に押し込む。押し込む。押し込む。
うまい、間違いなく今年食べた飯の中で一番うまい。
仲間と食べる飯がうまいのは当然だ。
早々に完食し店を後にする。寂しくなどない。私たちはまた会えるのだ。私たちが不幸である限り。
また会おう。仲間よ。同志よ。

2023 年よさらば。かかってこい 2024 年。

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