理不尽を理解するために理不尽を体験しなければならないという教育的指導がはびこる世界に誰がした?

前の記事の続き。
個々人の妬み、羨望。それはよくあることで、被害は現実的だ。
誰かがたくさん持っていて妬ましい、あの善人面したやつにも裏の顔があって、悪いことをしているに違いない(そうであってほしい)。
実際には育ちのいい人間が性格が悪いことはまれだ(教育的DVを受けたか職場環境が悪くて「このハゲ!」と叫んだり、部下をいびらないと気が済まない高学歴はいる)。育ちが悪い、少なく与えられてきた人間は性格が悪いことが多い。
賃金が安い職場には屑みたいな人間が集まりやすい。
賃金が高い職場には性格のいい人間が多くいるものだということは観察によって確かめることができる。
そして、持つものが多い人ほど羨望する機会が少ないか? 実はそうでもない。上に行けば上に行くほど格上を見る機会が増える。
例えば東大に行けば自分より頭いいやつがたいてい見つかるだろう。それをねたみ、自分が嫌になることもあるだろう。
だが、そのような個別の嫉妬は些細な問題なのだ。


・理不尽を告発するために理不尽な行為をするという不条理
本当に厄介なのは形而上学的な怒り、ヤハウェ的怒りだ。
この怒りは具体的な怒りの対象を持たずに、ただ怒りというイデアとして存在する。
しかし、それはイデア界に存在するので、現実世界で怒りを表現するのが難しい。そこで理不尽な怒りという形で、理不尽なものに対する怒りを表明するという形式をとることになる。精神的虐待はそのような状況で始まるのである。
精神的虐待は、まず神々の秩序に対する反逆としてはじまる、そのことをよく覚えておいてほしい。
つまり、理不尽な現実を告発するために、自分も理不尽を演じる。そうすることで世界の理不尽を伝えることができると(精神的虐待の加害者は)信じているのだ。
彼らの怒りは本当の怒りではない。怒っている理由を考えても意味がない。なぜなら、それは理不尽に怒られることがあるということを伝えるためにやっていることだからだ。そうすることで理不尽に対する耐性ができる。
前回、わたしがヤハウェ的怒りが伝染するといったのは、これが病気にかかり治癒するプロセスに共通しているからだ。
病気は感染すると耐性ができて同じ病気にかかりにくくなる。それと同じように、親や上司は愛情からあえて精神的加虐に走る。
そう。精神的加虐は
「あなたのためにやっているんだからね!」
だから、精神的加虐は本人からすると正義なのだ。
いまのセリフはこうした人たちのもっとよく使う癖癖だ。ほかには
「そんなんじゃ社会に出てからやっていけないわよ!」
このセリフの共通項は、社会を理不尽なものと刷り込み、そして社会というわけのわからないものに通用するために理不尽耐性をつけるという親心、上司の親切なのだ。


・だが断る
なんとまあくそみたいな話だ。
世界が理不尽で、自分はそのせいでひどい目に遭っている。そういう被害者意識。それが精神的加虐のきっかけになっている。
しかし、当人はそれを自覚することなどない。なぜなら世界は残酷で理不尽なのだから。彼らはその真実を伝えようとする伝道師(煽動家)なのだから。『進撃の巨人』など見ずとも、そんなものはとうにわたしは知っている。
だが、もし彼らは嘘をついているとしたら?
彼らの世界観は被害者意識にまみれており、壁内人類、エルディア人、マーレ人はみな自分が被害者だと思い込んでいる。そして、被害者だからやり返していい、そう考えて互いに殺し合う。
これが戦争の構図であることを『進撃の巨人』は見事に説明してくれているわけだが、果たしてこれは本当なのだろうか?
あなたは被害者だろうか?
わたしは被害者だろうか?
理不尽にさらされているのだろうか?
では、加害者はどこにいるのか?
そうだ。加害者はいない。被害者だと思い込んでいる人がいるだけだ。


・救世主がなぜ偽りなのか?
なぜそうなるのか? それはきっと神とかいうやつが被害者意識に満ちているからだろう、とニーチェは説明してくれる。
キリスト教はいかなる宗教か? それは一言でいうと被害者意識、自らを弱者、迫害された側だと規定するところから始まる。
キリストこそがいかにも、被害者の最大の存在といえる。彼はかっこいい英雄、征服者としてではなく、十字架に張り付けられた罪人として描かれ、その死刑の理由は理不尽である。ユダヤ人どもがイエスを磔刑にかけろというから殺された。
なんとまあ、被害者意識の強いこと!
いまでもマイノリティ、被害者を自称して自らの権利を要求する連中が山ほどいて、ポリコレがやかましい。
これらはすべてキリスト教、あるいはユダヤ教にまで根っこがつながっている。
被害者意識が強すぎると、ヤハウェ的怒りを抱くようになる。そこから逃れることはできない。
そして、精神的加虐の連鎖が続く。この問題を作り出しているのは人間ではなく、ヤハウェであることに注意が必要だろう。ヤハウェはどうみても人間を救っていない。単に、理不尽をユダヤ人に教え込んでいるだけだ。DV夫(妻)と一体何が違うのかわたしには区別がつかない。
ここで救世主について考えてみよう。救世主とは、このヤハウェから始まる精神的加虐の連鎖を断ち切るための存在として想像上作り出された存在である。
なんで想像上なのかって? それはヤハウェ的怒りが形而上学的領域に存在していて、現実世界にいないからだ。
漫画やアニメでいうと、異世界やネットの世界にいる敵を倒すために異世界やネットに入らないといけないみたいな展開だ。
救世主は私たちの生きる現実世界にはいなくていい。というより、それでは意味がない。
わたしたちが神の怒り、そこから始まる世界の理不尽に対する怒り、被害者委意識、などなどから逃れるためには形而上学的領域で戦わなければならない。
そう。つまりナザレのイエスの物語は作り話だということだ。そして、それ以外にヤハウェ的怒りをなだめる方法はないということをこの作者たちは知っているのだ。
「わたしは怒りである。わたしはあなたがたに破滅をもたらしにやってきた」という救世主がありえるのか?
現実にいる自称救世主の正体は全員ロベスピエールの仲間にすぎない。

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