日記 2024.11.23(土) 自分の手で触って感じた記憶。
6時ごろだったか目が覚めた。天気は良さそう。
シーツを洗いたいので洗濯機を回すことにした。ガーゼのシーツ(ブランケットをシーツ代わりに使っている)、ネルのパジャマと昨日の洗濯物を洗う。今朝は床の雑巾掛けをしようと決めていたから布団をあげながら掃除しやすいように下に置いてあるものを移動させておく。
台所に敷いているマットを洗い忘れたのでベランダでばさばさとほこりを落としておいた。実のところ、実家から帰ってきてから今日まで床の雑巾掛けをサボっていた。部分的にごみを拾ったりはしていたが部屋全体を掃除するのはすごく久しぶりになってしまった。
実家から帰ってきて驚いたのは1ヶ月以上誰もいなかった部屋でもちゃんとほこりはたまっていくんだということ。家を空ける寸前に掃除して帰ったから戻ってきてからしばらくは掃除しなくてもいいのかなーなんて思っていたけれど全然そんなことはなく、指でなぞって文字が書けるほどにほこりは積み重なっていた。風もない密閉された空間なのにどうしてなのだろう。
というわけで2ヶ月ぶりくらいの雑巾掛け。雑巾におろしたばかりのタオルを使うから気持ちがいい。お酢のスプレーを吹きかけて台所と部屋を隔てたドア、鏡から拭いていく。さっと汚れを拭うだけ、それだけでこんなに気持ちがいいものかと毎回掃除をするたびに思う。そう思うならこまめにやればいいのだがどうにもこうにも気分が乗らないことがあるから不思議だ。掃除にはかなしいかな、中毒性がない。
それでも掃除をしているとき、わたしはすごくしあわせを感じている。掃除が終わった部屋をながめるとき、もっともっとしあわせな気持ちになる。汚れた雑巾を洗う。この雑巾の汚れはどこの汚れかわたしは知っている。どこがきれいになったかわたしは知っている。自分の手で掃除をするということは自分の手でしあわせになっていくということかもしれない。退屈だな、いいことないかなと感じたら掃除をしてみたい。
朝ごはんは昨日買った焼き芋を食べることにした。こだわりの八百屋さんの焼き芋はとんでもない大きさだった。いつもの駅前のスーパーの焼き芋は値段は安いが小ぶりですぐに食べ終わってしまうのだがこの焼き芋はいつまでも楽しむことができる。おやつとしてもかなり優秀だと思う。
番茶とチャイを持って今日はずっと行ってみたいと思っていた場所へ行く。立原道造さんの建てたかったヒヤシンスハウスという小屋が建つ場所へ。
中浦和という駅ははじめて降りた。電車で一時間くらいの旅。普段乗らない路線に乗り換えてしばらく座っていたら到着した。新幹線と同じ高さのホームを降りて公園へと進む道をゆく。駅前はがらんとしていて静かな場所だった。
公園の入り口が分かったと思ったらもう建物が見えた。この公園はところどころに柵はあるけれどどこからでもどうぞお入りくださいという雰囲気。ちらりと見えているヒヤシンスハウスめがけて一直線に公園を進んだ。
ヒヤシンスハウスは小さな可愛い小屋だ。詩人であり建築家でもある立原さんが自身のために構想した夢の家が彼の建てたかった場所に建っているらしい。真っ平らな公園内にはメタセコイヤの並木、地面と同じ高さに池もある。この池の水は湧水なんですよとヒヤシンスハウスの方が言っておられたような気がする。小屋の中からも池を眺めることができてなんとも素敵な場所に建っている。
ヒヤシンスハウスの内部も見学することができた。無駄なく配置された机や椅子、ベッド。狭さを感じないのはL字の大きな窓があるからだと思う。外の公園と小屋はつながっているように感じる。小屋の床には枯れ葉が落ちていて外にいるのか小屋の中にいるのかよくわからなくなる。
わたしの荷物はここに入りきるかな、いま住んでいる部屋と大きさはさほど変わらないんじゃないか、この小屋でどうやったら暮らしていけるかな、小さな部屋でも工夫次第でこんなに広々とした空間ができるんだな、色々と気づくことがあった。この小屋へ来てみて改めて、たくさんのものから解放されて、必要なものだけ持ち、ちょっと不便なくらいの暮らしというものは可能なんだと思わせてもらった気がした。
自分の最小限を知っておけばあとどれくらい無職の実験を続けられるかが分かる。いざという時の準備もできる。あるもので代用できないかと工夫が生まれる。なくてもなんとかなる、できる、やってみる、と思うとなぜだかほっとする。失敗しながら試していくと少しずつでも見えてくるものがある。試して実践し続けることで、経験したことがわたしの自信となっていく。試行錯誤の日々はなんと楽しいのだろう。
自分の手で触って感じた記憶は消えない。これからも自分の暮らしを、仕事を、自分の手で作り上げていきたい、ヒヤシンスハウスを後にしながらそう思った。