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しゅんき氏のnoteから考える、「理屈っぽい」人間がコミュニケーションを乗り切る方法

このページを開いてくれたあなたは、今までにこんな経験をしたことはないだろうか。

・なぜか以前から人間関係が上手くいかない
・よく他人から「硬すぎる」「態度がキツい」「理屈っぽい」と言われる
・他の人からコミュニケーションについてのアドバイスを受けても、ピンとこない

私も、かつてそんな経験をした者の1人だ。この記事は、そんな人たちに向けて書く。もちろんこれに当てはまらない人も読んでくれたら嬉しい。

しゅんき氏のnoteについて

皆さんは度々Xで話題を呼んでいる「しゅんき」氏をご存知だろうか。

昨年(2023年)に、好きな芸人との接し方を間違えてしまい、その本人からSNSをブロックされるに至った経緯を赤裸々に綴ったnote記事が話題となった。

しゅんき氏はその後も、自分の思考について他の人からの意見を聞くために、自分の身に起きた出来事などについて事細かに綴ったnoteを度々更新している。

私はずっと彼のnoteをこまめに追い続けたわけではないのだが、先日更新された記事が再びXで話題になっており、気になったので過去のnoteを読み返してみた。すると過去の私自身の思考や言動と重なる部分が多かった。

私はしゅんき氏の2つ歳上。中学高校の頃に人間関係でトラブルを起こし続け、一時期は適応障害と診断され、半分不登校のような状態になったこともある。そのような経験を経て、自分なりに対策を練った結果、今は落ち着いた人間関係を維持することができるようになった。

そこで、彼の記事を参照しつつ、改めて自分がどうやって他人とのコミュニケーションを乗り切れるようになったのかを自己分析してみたら、結構いろんな発見があったので、過去の自分と同じような苦しみを抱えている人に共有したいと思い、この記事を書くことにした。

なお、しゅんき氏のnoteを反面教師として引用してこの記事を書くことについて、しゅんき氏本人にXのDMで事前に了承をもらっている。
(しゅんきさん、改めてありがとうございます。)

それから、このnoteはあくまで「しゅんき氏の思考や言動を、コミュニケーションの失敗の実例として参照しつつ、コミュニケーションについて考えていく」ものであって、しゅんき氏個人に向けたアドバイスではないし、しゅんき氏個人の問題点を洗いざらい指摘するものでもない。
むしろこのnoteに書いてあることを実践するだけではしゅんき氏の抱える問題は解決しないと思われる。しゅんき氏は、そもそも認知が歪んでいると指摘される部分がある。そのような認知の歪みについては、自力では解決できない。
このnoteは、どちらかといえばコミュニケーションを自力で乗り切るためのものだ。
少しでもこのnoteがしゅんき氏の助けになるなら嬉しいが、それを第一の目的とした記事ではないことをご承知おきいただきたい。

まずは何を目指すべきか?〜「自分の頭で考える」ための第一歩〜

ここから本題に入る。

冒頭にも述べた通り、このnoteは「理屈っぽい」と言われてしまいがちな人が、必要最低限、生活に支障が出ない程度のコミュニケーションをできるようになるための方法について書くものである。

では、「理屈っぽい」人間が最終的に目指すべきことは何か。

それは、「自分の頭で考えられるようになること」である。

きっとあなたは今、こう思っただろう。
そんなのは分かってんだよ!それができないから聞いてるんだよ!」と。

きっとあなたは今まで、何度もこう言われて、うんざりしたことがあると思う。
「コミュニケーションのやり方?そんなの、自分の頭で考えなよ」と。

残念ながら、これは事実である。コミュニケーションは、他人から教えられたことを律儀に真似するだけでは上手くいかない。コミュニケーションの在り方は時、場所、自分、相手によって常に変わり続けるからだ。

だから、「○○な時は、△△するのが正解!」みたいな、シンプルで分かりやすいことを教えることはできない。

けれども、「自分の頭で考える」ことができるようになるための前提となる「思考の方法」なら、教えることができる。むしろ本来他人から教わるべきはそのような思考法であって、それを蔑ろにした「コミュニケーション術」はまやかしでしかない(と少なくとも私は思っている)。
この記事ではその「思考法」をできるだけ噛み砕いて説明していこうと思う。

理屈からの脱却を諦めろ、むしろ理屈を究めろ

「理屈っぽい」人間がコミュニケーションにつまづいてしまう一番の大きな原因。
それは、「コミュニケーションのやり方が感覚として身についていない」ことである。

こういう人が、コミュニケーションのセンスがある人にアドバイスを乞うと、「なんとなく雰囲気とかで分からない?」みたいなことを言われて、何も得られないというのはよくある話である。

実際、しゅんき氏もそのような体験をしている。

すると、道中で女子に
「しゅんき君ってさ、教科書通りというか、なんか、物事の捉え方が全部まっすぐすぎる」
「私ナイーブやからさ、そんな言われると傷つく」
などと少し不機嫌そうに文句を言われた。

会ってからまだ数分。そんな大した話もしていないし、
特に傷つくようなことを言った覚えもない。
「え?そんな何か喋ったっけ?傷つくようなこと言った??」
と聞くと、
「特に何言われたとかは無いけど、なんか、こう…」
と言われた。
内容が分からないと、どちらが悪いかもわからないし、どうしようもない。

「バンド結成のお誘いを受けましたが、メンバーが集結した初日に揉めて解散しました。」より

ではどうすればよいか?
結論から言えば、「逆に理屈を究めてしまえばいい」。これが私の提唱するメソッドである。

なぜなら、理屈で生きている人間が、すぐに感覚で生きる人生に切り替えることは、ほぼ不可能だからである。ならいっそのこと、自分が得意とする「理屈」を、突き詰めてしまえばいい。

やや抽象的で分かりづらいかもしれないから、例え話をする。
例えば、生まれつき身体に障害のある人や、何らかのきっかけで身体に大きな怪我を負ってしまった人たちは、義手や義足、松葉杖、車椅子などのツールを使いつつ、何度も何度も練習を重ねることで、五体満足の人たちとの差を埋めている。
これはものすごく労力の要ることだし、練習を積んで上手に動けるようになったとしても、不便がなくなるわけではないし、一般人よりも多大なエネルギーを消費せざるを得ない。
けれども、そうすることで「普通の生活」に近づくことができる。

「理屈っぽい」人間がコミュニケーションにおいてやるべきことも同様である。我々は、他の人が既に持っているセンスを持っていないし、そのセンスを身につける素質もない。
だから、「理屈」という今持っているツールを使って、一般的なコミュニケーションをエミュレートするのである。
普通の人ならいちいち理屈を使わずとも感覚でできることを、わざわざ理屈という手間のかかるツールを一旦経由しないとコミュニケーションを実践できないということになるので、当然めちゃくちゃめんどくさいし、疲れる。
恋愛ゲームに例えるなら、普通の人はフルオートで理想的な選択肢を選び続けることができるが、我々はいちいち選択肢のたびに長考して、悩んで悩んでようやくはじめて選択ボタンを押すことができるようなものである。

けれども、そうするしかないのである。自分に不向きなことをやる以上、普通よりも精神的・時間的なコストがかかるのは当然のこと。
だから、疲れたくないのならそもそもコミュニケーションの数が少なくて済むように環境自体を変える必要がある。環境を変えずに、簡単で分かりやすい「コミュニケーション術」で乗り切ろうとするのは、自分の首を絞める行為にほかならない。

もっとも、「理屈」と「感覚」とは完全に区別ができる、あるいは対立する概念ではない。感覚で動いているように見える人間も、意識されないところにちゃんと「理屈」が働いている。
つまり、理屈によるコミュニケーションのエミュレートを何度も何度も繰り返していけば、その理屈がだんだん身体に染み付いてくる。そうするとそれはもはや「感覚」と言っても差し支えないものになるのだ。
これを私は自分の中で「理屈の身体化」とか「理屈のオートメーション化」と呼んでいる。

改めてまとめると、我々が目指すべきは「理屈を究めて、理屈を身体化すること」ということになる。
以下では、これを前提として話を進める。

そもそも「理屈っぽい」とは何か?

さて、ここまで何度も理屈理屈と言われて、意味が分からなくなってきただろうから、まずはこの「理屈」について探っていく。

そもそも世間一般の言う「理屈っぽい」とは何なのだろうか?

我々は「理屈っぽい」と他人から言われた時、
「いや、だからって感情を優先していいわけじゃないじゃん!そもそも俺間違ったこと言ってないのに!」
と思ってしまう。

実際、「理屈っぽいね」って言ってくる人の多くは、自分にとって都合の悪い理屈を突きつけられて、それから逃げたいがために言い訳のようにこの言葉を放ってくるものだから、尚更不満に感じるだろう。
先に引用したしゅんき氏のnote「バンド結成のお誘いを受けましたが、メンバーが集結した初日に揉めて解散しました。」でも、しゅんき氏に不満を呈した相手が、見知らぬ人間といきなりバンドを組もうとするうえに、その人物から指摘されても未成年喫煙を頑なに辞めたがらない、というかなり変なタイプの人間だったがために、余計にしゅんき氏の混乱を招いている。

けれどもこの「理屈っぽい」の正体を探らなければ、我々の問題は解決しない。
この、「理屈っぽい」を字面通りに捉えてしまうと、そこから先に進めなくなってしまうのである。

そう、この「理屈っぽい」という言葉は、「理屈を持ち出すな」という意味ではない。理屈そのものを否定する言葉ではないのだ。
これは、「この場面において持ち出してくる理屈のチョイスが間違っている」とか、あるいは「理屈を言動として出力する方法が間違っている」といった意味なのである。

先にも述べた通り、普通の人が持っている感覚は、理屈から全く離れたところにあるわけではない。人は誰しもが理屈で動いている。
けれども多くの場合それははっきりと意識されない。だから、その場のチョイスとして適切でない理屈が持ち出された時に、ぱっと出てくる言葉は、自分の理屈による反論ではなく、「なんか、理屈っぽくて嫌だね」という感想になるのである。

つまり何が言いたいかと言うと、
感情で動いているように見える人間も、実は理屈で動いている」ということ。
そして、「思考停止せずに、その見えない理屈が何なのかをちゃんと考える」こと。
先に述べたように「理屈を究める」ためには、この意識を欠かさないことが重要である。

「理屈」の階層化の重要性。理屈同士は、常に対立するとは限らない

もっとも、しゅんき氏は、上記に述べたような意識がないわけではない。むしろ積極的にそれを実践している。実践しているからこそ、彼のnote記事が多くの人にとって興味深いものになっているのである。

特に以下のnote記事は分かりやすい。彼は、大学に入るまで「謝罪」の意味を理解できなかったが、大学での学習を通じて、「そもそも自分の中での『悪いこと』の定義が誤っていたのではないか」と考えるに至り、「謝罪」の意義を自分の頭で丁寧に考えている。

ではなぜ彼はその後もトラブルを抱え続けているのか?

それは、「理屈の階層化」ができていないからだ。

あなたは今まで、他の人からコミュニケーションにおける問題点を指摘された際に、こう思ったことはないだろうか。
「でも、そうやって妥協するくらいなら、自分を貫き通したい」
「でも、そんな風に行動したら、自分の信条を曲げてしまうことになる」
と。

その考え自体は間違いではない。自分の信条を守ることは大事だし、それを蔑ろにするような人間関係は絶った方がいい。

しかし、あなたはその決断をする前に、そもそも「自分の信条と相手の指摘は対立しており、どちらかを優先すればどちらかを曲げることになる」という構造そのものを疑ったことはあるだろうか?

もし疑ったことがないのなら、そのような思考の仕方がコミュニケーションの軋轢を招いている可能性が高い。

しゅんき氏のnoteからも、そのような思考がたびたび見てとれる。

「ナイーブだから」「傷つきやすいから」などという理由で
違法行為も優しく見逃す、そんなわけにはいかない。

「バンド結成のお誘いを受けましたが、メンバーが集結した初日に揉めて解散しました。」より

このnoteでは、しゅんき氏は、未成年喫煙そのものは完全には否定しないとしつつも、他人から指摘されたのに開き直ってやり続けるのは良くない、という考えを述べた後で、上記引用の文言が出てくる。
つまり、彼にとっては「開き直って未成年喫煙を続けることの是非」と、「自分がそのような行動をする人間を目の当たりにした時に、相手を見逃すことの是非」という二つの理屈が不可分のものとして結びついており、
彼の中では「自分が不届者を見逃すことは、その行為を肯定するのも同然のこと」となっているのだ。

もっとも、これは法に触れる行為についての話だから、おかしいことを言っているわけではないし、彼のこの状況での思考や行動は特別異常というわけではない。

ただ、彼はこのような思考様式を、あらゆる場面で貫いているのである。
以下の文は、彼がインターンに行った時の体験を記したものである。

初日。
今回参加するインターン生は僕を含めて4人。
最初は1社目と同様、社員によるIT業界及び会社紹介だった。

驚いたのだが、
説明を聞きながら誰もノートを取っていない。

(中略)

私は、初日、会議室に案内されて席に着いた時点で
すぐにノートとペンを出していつでもメモを取れるように準備していた。
絶対にそうするべきである。

(中略)

ちなみに2日目以降、座談会など社員の話を聞く機会は多々あったが
誰もノートを持ってこなかった。
私が「絶対に紙のノート持ってきたほうがいい!」と力説したのに。

「インターンシップで、社員に良く思われようと頑張りました。」より

彼はまず、このように考える。「インターンにおいては、ちゃんと紙のノートを持ってきて逐一メモをとるべきである」と。
そして彼は、周囲に「絶対に紙のノートを持ってきた方がいい」と力説した。
彼の中では、この思考と言動は論理必然的に結びついている。「紙のノートを持ってくるべき『だから』、紙のノートを持ってきた方がいいと周囲に力説した」のである。

次の文は、彼が大学の研究室に配属されて体験した出来事を記したものである。研究室での集まりに遅刻してきたメンバーについての彼の考えが書かれている。

10時になり、予定の時間になった。

しかし、初回に遅刻してきたあの子の姿が無い。

連絡すると、
「忘れてた。まだ家に居るから間に合わない」とのこと。

1回目忘れて遅刻して、
2回目も忘れることがあるだろうか。



どうしたらいいのだろう。

私は集まりのたびに彼にモーニングコールでもしたほうがいいだろうか。

「大学で研究室を決めた。チームで動くのは難しい。」より

ここでは、彼の中で「遅刻をするべきではない」と「遅刻をしてくるメンバーに対して自分が何かしてあげなければならない」という二つの理屈が結びついている。

他にも挙げればキリがないのだが、とにかく彼は、
AはBするべきである。『だから』、僕はCしないといけない
という行動原理を持っている。
もっと言えば、
僕がCしなかったら、AはBをしなくてもよいということになってしまう
と考えているのである。

ここで起きている問題は何か。
それは、「全ての理屈を同じ軸の上で考えている」ことである。

異なる理屈が同じ軸の上に同時に存在すると、これらは対立せざるを得ない。だから、どちらかが勝てばどちらかが負ける、という関係性で理解することになる。

しゅんき氏の思考様式

しかし、これはそもそも理屈の理解として正確ではない。このような認識がコミュニケーションの不和を招くことになる。

※ここで注意してほしいのは、「理屈としては正しいけど、世間じゃそれは通用しないんだよ」みたいなありがちな言い分を鵜呑みにしないでほしいということである。
ここで私が言いたいのは、理屈が通用するかしないかという問題ではなく、そもそも理屈の理解として間違っている可能性を考えてほしいということである。

ではどのように考えればよいか。
全てを同じ軸の上で理解するから良くない。ならば、軸を複数にしてしまえばよいのである。
これが、「理屈の階層化」(と私が勝手に呼んでいる考え方)である。

理屈を階層化した思考様式

そもそも、「紙のノートを持ってくるべきだ」という理屈の反対にあるのは、「紙のノートは不要である」という理屈であって、「紙のノートを持ってきていない人間に対してどう接するべきか」という議論は、こことは別の軸にあるのである。

だから、別に、紙のノートを持ってきていない周囲の人間に対して何も言わなかったとしても、自分の「紙のノートを持ってくるべき」という理屈が否定されることにはならない。

それが、理屈を異なる軸の上で考えるということ。

このような「理屈の階層化」がなされていない人間は、誤った認識の理屈を振り回して、周囲の人間に訝しがられてしまうことになる。

何度も繰り返すが、理屈をコミュニケーションに持ち出すことが誤っているのではない。
コミュニケーションに失敗した場合、持ち出してくる理屈、あるいはその理解が誤っているのである。

もちろん、理屈の対立が完全に避けられないわけではない。時には自分の理屈を曲げるか曲げないかという選択を迫られる場面もある。
しかし、そういう時でも、「そもそも今、本当にそういう選択を迫られているのか?」と一度立ち止まって考えてみてほしい。
すると、自分の中の理屈と相手の指摘が両立する可能性に気づけることが多々ある。多くの人はそれを無意識にやっているので、それを「妥協」と表現してしまうことがある。
しかし実際にはただの妥協ではないのだ。理屈の理解の仕方を変えることで、相手の理屈と自分の理屈が両立するラインを探っている。

それから、上の図は分かりやすいように非常に簡略化したが、現実には同じ軸の上にある理屈同士も、必ずしも対立しているとは限らない。
同じ軸の上にある理屈が2つだけとも限らないし、その境目がはっきりあるとも限らない。
階層化するだけではなく、それぞれの階層内でもじっくりと目を凝らして細分化していくこと。

理屈を究めるうえで、これはしっかりと意識しなければならない。そうすると、自然と円滑なコミュニケーションのやり方が見えてくるはずだ。

一つのルールにこだわらないために、「ルールのルール」を探る

先に述べた「理屈の階層化」は、既に自分が持っている理屈をどう整理して理解するか、という視点からの話だった。

ここでは、少し視点を変えて、「理屈の見つけ方」について話そうと思う。

しゅんき氏は、どうやら一つのルールに強くこだわってしまって、それがどんな場面でも通用すると考えてしまう傾向にあるようだ。
というより、複数の異なるルールを目の当たりにすると、混乱してしまう、と言った方が正しいだろうか。

コミュニケーションについてのエピソードではないが、彼のこの傾向について象徴的なエピソードがあるので紹介したい。
彼は、中学時代、とりあえずで囲碁将棋部に入っていた。その時のことを振り返って、このように述べている。

僕は、将棋をあまり好きになれなかった。
あまりにも難しすぎる。
相手陣地への攻め方とか、自分の駒を守る囲いのつくりかたとか、
ネットで調べればいろいろ出てくるけれど、
多すぎて訳が分からない。
先輩に聞けば多少教えてくれたりもするけれど、
手順が多すぎてメモするのも難しいし、
「こういう時はこの戦法使えるけど、ああいうときは使えない」とか言われて、訳が分からない。

相手の使っている戦法などを見て臨機応変に対応を変えなければならないのだが、
それが全くわからない。

攻め方も守り方も戦法がたくさんありすぎる。
いくつも覚えて使い分けるなんて、僕にはできない!!!
使い分けるのは無理だから、1個だけ覚えて、
どんな状況でも同じ1個の戦法を毎回使っちゃえ!!
そう思って僕は、攻め方と守り方を1つずつ覚えることにした。

「中学時代の部活の思い出」より

誰しも、複雑な戦法が要求されるゲームをやったことがあれば、このような思いをしたことがあると思う。

彼は、ゲーム以外の、対人関係においても同じ混乱を起こしてしまっているのだ。
以下は、彼がマッチングアプリを始めた時の体験について記したものである。

日本人は周りに合わせることを良しとして、
誰かが始めるまで様子を見る残念な人間が多い。
だから、私は積極的に1番を取る。

しかし、
最近、積極的に1番を取ることが必ずしも良いわけでもないと教わった。

(中略)

だから私は、
マッチングしてもあえて様子を見ることにした。

(中略)

だから僕は何も話しかけなかった。

しかし、何日か経っても何もメッセージが来ない。

困った。



Twitterでその旨を呟くと
「恋愛は男側からアプローチするのが普通」
とのことだった。

物事には例外がある。
場合によって、正しい振る舞い方は異なるのだ。

「恋人を探そう!①」より

このように、それぞれの場面に応じた対応の仕方を他人から一つ一つ教えられてそれを実践しているのは大変素晴らしいことだが、はじめにも述べた通り、コミュニケーションを乗り切るためには最終的には自分の頭で考えられるようにならなければならない。
コミュニケーションとは時、場所、相手、自分によって常に変動し続けるものであり、社会や環境の変化に合わせて自力で対応できる力がなければならない。他人から一から十まで教わっても、根本的な問題は解決しないのである。

では、場面に応じたコミュニケーションの理屈を自分で導き出せるようになるために必要なことは何か。
それは、「ルールのルール」を探ることである。

あるルールの根底には、更に大きいルールがあり、更にその根底にもルールがあり……という形で、あたかも木の枝のようにルール同士が連なっている。
だから、まず「ルールのルール」を辿って、大きい枝を見つけること。その大きい枝から別の方向に目を向けると、違う場面で妥当する別の小さなルールが見つかる。
これが、私なりの「理屈の見つけ方」である。

これだけだと抽象的すぎて、どういうことか分かりづらい。一つ例を出そう。

例えば、「他人の土地の中にある果物などを勝手に採取してはいけません」というルールがある。
このルールは、「所有権の保護」という大きなルールから導かれたものである。
そして、その「所有権の保護」というルールの元を辿れば、更に「私有財産制」という大きなルール(制度)が見えてくる。
つまり、この一見するとそれだけで当たり前に思えるルールの根底にも、社会の仕組みや価値観という大きなルールがあることが分かる。
裏返せば、社会の仕組みや価値観が違えば、全く異なるルールが導き出されることもありえるということだ。
実際、私有財産制は共産主義国家では妥当しない。また、共産主義国家でなくとも、私有財産制やそれに基づく所有権の保護よりも優先しなければならない価値があれば、その先のルールも変わってくる。
たとえばスウェーデンなどの北欧諸国には、「自然享受権」というものがあって、土地の所有者に不当な損害を与えない限りは、勝手に他人の土地の果物などを採取してもよいとされているのだそう。これは、「自然の恵みの共有」という価値を、個人の所有権の保護よりも優先する社会だからこそ導かれるルールだ。

このようなルールの枝分かれは、コミュニケーションを支配するルールにも当てはまる。
嘘をついてはいけない」というルールは、「コミュニケーションにおいては信用が大事」という大きなルールから導かれるものだ。逆に言えば、信用の担保がそれほど重要ではないような場面では、必ずしも嘘をつくことが悪にはならないということ。自分の信用よりも、相手の心の平穏を保つことが優先される場面では、嘘をつくことも選択肢の一つとしてありえるということ。だから、「嘘も方便」という言葉がある。

このような「ルールのルール」の存在を意識すれば、誰かに教わらずとも自分でルールを見つけられるようになる。

他者からのフィードバックを欠かさない

そして以上の思考法を実践するうえで大切なこと。
それは、常に他人からのフィードバックを欠かさないことである。

当然だが、ここまでに書いたことを実践しても、正しい理屈が出力されるとは限らない。
常に、出力ミスの可能性を考慮して、他人にチェックしてもらうことが大事である。

しゅんき氏は、まさに今noteを書いて、色んな人からの意見を聞くことで、それを実践している。

もちろん聞くに値しないような酷い言葉が投げかけられることもあるし、そういうものに耳を傾ける必要はない。
しかし、自分に真剣に向き合ってくれる他人の意見は、しっかり噛み砕く必要がある。
そうすれば、コミュニケーションツールとしての理屈が、どんどん有用なものとして磨かれていくはずだ。

諦めないで。自分を無理に変えなくても、コミュニケーションはできる

ここまで非常に長い文を読んでくれた方、本当にありがとう。

最後に改めて私が伝えたいことを書く。

理屈にこだわってしまう人間でも、コミュニケーションはできる。
自分の信条を曲げなくても、他人と協調できる道は探せる。
そのためには、まず思考法を見直すこと。

私もまだ手探り状態だが、「できる」と信じれば良い方向に進むことができた。

しゅんき氏、そして全てのコミュニケーションに苦しむ者たちの未来が明るいものでありますように。

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