OverLoadがいよいよ10巻に突入!!

アニメではおよそ9巻までだったので、いよいよ未知のシーンに突入。9巻終わりではわかってたけどグッとくる。間知らない話もあったけど、はっきりと波も感じおもしろい。

今日も久しぶりに外現場で、内容は昼にはやることないけど、現場ではなんかやってるふりをしなければならず、中々もやもやする現場であったが、休憩時間を多めにとるので、その分読みふける。主人公であるアインズ・ウール・ゴウンの青臭い思いが出てきて、あまりに青臭いけど、それがまたグッと来てしまう。ええぞ、おもいっきりやりたい事やってこって思った。

企画を考えると細部まで決めて実行しないと周りが苦労するわけやけど、なによりアイディアが面白ければ多少ぐだってもその間面白いことが起きたりするもので、イレギュラーがあっても楽しい事とかシンドイ事が起きる、それは精神の運動においていい負荷になり、柔軟な精神を作っていくと思う。なにより、楽しさと苦しさのバランスがとても大事で、どうにかしてこのバランスの上で生きていくのが幸せだと思っているから、目的にたどり着く前の過程でもそのバランスを重視して下手な船頭も糧になる気がするから肯定的になるんやろな。

後、全然話が変わるけど、今日話をしてて思ったのが、無と有について、それは数字で置き換えると0%か、0%ではないか。

ここで定義する無とは、広義的な意味で無、この世のどこになにない、この時間軸のどこにもないもの。

ここで定義する有とは、広義的な意味で可能性、この世のすべてのどこかにある、この時間軸のなかでどこかにあるもの。

こんな途方もない話をしていて、思ったのがこの世のどこにもない、この時間軸でどこにもない事を証明するのは人間には不可能だという事。

歴史の研究しようが、そもそもその歴史は本当かどうかは推察の域を出ないのではないか。参照している書物の内容自体がよく考えられた空想なんじゃないか。まったく別の内容がかかれた書物がなくなってしまっているのではないか。そんな事をかんがえると途方もない、とてつもない思いを感じる。

自分が知らないだけで、すべての書物を読み解き、痕跡を探り、調べ明かした人物もいるかもしれないが、いないかもしれない。わからない。

でもそこには、わからないが「有」わからないという思考が「有」

これは人間が存在してるこの世がある限り、そこには必ず存在する「有」

この「有」に希望を感じている。

人間に不可能を定義、証明する方法こそが「無」なのではないか。

それが無の定義であるからこそ、それ以外のすべてに「有」と思えるのではないか。

自分はアホほどポジティブな部分がある。そこにこの考えがあると今日気付いた。どんなことにおいても、だれが否定しても、関係なく、可能性0%ではない、「有」がある。

それを思えばその可能性を片っ端から試す過程はすべて希望である。いつまでも結果が思うような方向にいかなくても、不安はない。不可能を証明することは人間にはできない。



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