東京都同情塔(著:九段理江)ーあの人の気持ちは本物?どういう関係?
ちょっと前に読んだ、九段理江さんの東京都同情塔。
芥川賞受賞作品&AIを使って執筆した、ということで話題になったのかな?
芥川賞は新人作家による純文学、ということで、わかりやすいストーリーの小説!って感じではなく、ちょっと読みにくい印象がある。
おいしいごはんが食べられますように
推し、燃ゆ
コンビニ人間
乳と卵
蹴りたい背中
「乳と卵」と「蹴りたい背中」は20代の時に読んでいるからあまり記憶にないが…。今まで読んだ芥川賞と比較して、最も「え?で?え?これで終わり?何!?」感が強く、読了しても「まぁ、読んだって感じかな?」という感覚だったけれど、時間が経つにつれて、伝えたいのかこういうことかな…とジワジワ染みてきた感じでした。
以下、小説の内容についてポツリポツリと触れていきます。掴みどころが難しい小説だすが、ネタバレになる部分も出てくると思うので、未読でこれから読む予定がある方はお気をつけくださいませ。
言葉で真実を言い表すことはできるのか?言葉で言い表さないなら、何が真実なのか。
AIが語る言葉
脳内の独り言
親しい人に語る言葉
好きな人に語る言葉
公的な場所で語る言葉
どれも真実ではないかもしれないが、個人の強い意思があれば、どれも真実になりうる、かな。
占いで「真実を追求しようとしすぎないこと」とお客様に告げることがあります。自分個人の真実を追求するのは本人が望むのなら、大事なこと。ただ、真実のレベルを相手や周りと揃えることはできない。自分の真実を相手の中の真実がなんとなくマッチするのが、価値観が会う、相性がいいということ。
本当に好きか?どれくらい好きか?を明確にこれが事実です、と言い切ることはできないんだよね。
主人公はアラフォーの建築家、牧名沙羅。そして、沙羅が一目惚れした15歳年下の拓人が登場する。
この二人の関係って結局なんなんだろう?特に拓人から見た沙羅ってどんな存在?が最後までわからなかった。物語の中の時点では、拓人もわかってないかもしれない。
拓人はお母さんが中学生の時に生まれた子供だから、拓人のお母さんと沙羅は同い年。
沙羅とお母さんを重ねて見ることもある。
著名で仕事熱心な建築家として尊敬の眼差しで見ることもある。
無邪気な女の子として見ることもある。
親子のような、友人のような、上司と部下のような、恋人同士のような。
占いの現場でも相手と一般的にいう曖昧な関係だった時に、相手にとって自分はなんなのか?セフレなのか?これはどういう関係か?と質問をいただくことがあります。
体の関係があり、恋人同士であるとお互いの了承がちゃんと取れてない場合、より多くの人が何となく状況を想像できる形で、言葉で二人の関係を表現するならば、セフレか曖昧な関係ってことになってしまう。
多くの人が理解できる言葉で関係を表した時、そこにあった二人だけの秘密の空気感はなくなってしまって、一気に陳腐なものになってしまう。
物語の中の話で言うなら、東京都同情塔と言うか、シンパシータワートーキョーというか、みたいなこととも近いのかな!?
不安なこと、怖いことがあると、それがなんなのか、言葉で定義したくなる。ノートセラピーのように言語化することで、気持ちが落ち着いたり、先が見えたりすることもあるけれど、言葉にすることによって大事な感覚を見落としてしまって、実はあった素敵なものがなかったことになることもある。
物語の中では、あの手この手を尽くしても、言葉で真実を語ることなどできなくて、牧名沙羅が作った東京都同情塔と代々木にある国立競技場、この二つの建築物が対をなす姿がめちゃくちゃ美しくてかっこいい!!それだけが唯一の真実だ、となっている。(はず)
言葉にできない、何となくグッとくる。その瞬間が真実。
誰かとの関係で見るなら、話をした時ににっこり笑ってうなづいてくれる、その笑顔の瞬間、とか。何かを見て、同時に笑ったその時、とか。
今、この時、この空気感を感じることってすごく大事。
その空気感の連続が相手と自分がすごくリンクしているって感覚に繋がる。
「私たちってどういう関係だろう?」「これってどういうことだろう?」って言葉で表現しようとしている時は、今、この時を感じる感覚が鈍っている時だから「大した関係じゃないかもしれない」って不安になったりしちゃうんだよね。
言葉と真実。言葉で真実は語れるのか。言葉であの人のことを表現できるのか?あの人と私に関係は言葉にできるのか?そういうことについて描かれた小説でした。
ちょっと前に哲学者のヴィトゲンシュタインに触れる機会があったんだけど、ヴィトゲンシュタインの哲学感とこの本は似てる?インスパイアされている?と思ったけど、どうなんだろう?ヴィトゲンシュタインは建築家としての側面も持っていたようですね。