オー!シェイムフル!小島信夫「アメリカン・スクール」
こんにちは。人間のニンゲンです。
「ワンとニンゲンの文学ラジオ」第16回と第17回、公開中です。春先の散歩のお供にどうぞ。
「異邦人」「地下室の手記」と長編を2作続けて取り上げてきましたが、これからしばらく短編をメインで扱っていこうと思います。第一弾は小島信夫「アメリカンスクール」です。
正直第一弾に持ってくるにはかなり外したというか、非王道なチョイスではあるんですが、録っちゃったものは仕方がない。
読んでみるとクセの強いキャラクター達がクセの強い文体で暴れる大変愉快な、そして巧みな小説でした。
■ 小島信夫 こじま のぶお(1916-2006)
小島信夫はいわゆる「第三の新人」として活躍した小説家です。同じく称される作家に遠藤周作、安岡章太郎、吉行淳之介、庄野潤三など。しかし恥ずかしながら第三の新人にまったくもって詳しくないので、ここで彼らを共通項で括ったり時代性を云々したりするのはやめておきます。
大事なのは「アメリカン・スクール」はとんでもなく面白いということです。
「アメリカン・スクール」だけじゃなくて短編集「アメリカン・スクール」(新潮文庫)に入っている他の短篇もことごとく面白い。
若い歩兵が愛銃に年上の恋人の肉体を重ね合わせて狂う「小銃」は「野火」や「ひかりごけ」にも引けを取らない戦地極限状態小説ですし、戦後、網棚に人が乗り人の上にも人が乗る状態だったという汽車の旅路を書いた「汽車の中」もユーモラスな描写の中に並々ならぬ迫力がある。
表題作「アメリカン・スクール」は、
敗戦を経験した日本人英語教師達がアメリカ人学校の授業を見学しにゆくドタバタ劇。
一言で言ってしまえばそういう小説です。
英語を話すくらいならジープからも飛び降りる伊佐と、モデル・ティーチングでアメリカ人に日本の教育力を知らしめたい山田の対決(?)構造を中心に、全編諧謔に富んだ調子で進みます。が、戦後三年という時代設定の内でアメリカ国、アメリカ人、英語に対する教師達の生々しい心境がふいに顔を出してきて、ドキリとさせてくるのがこの小説の侮れないところ。
ここまで露骨な白人・欧米コンプレックスの心理はここ最近では(少なくともわかりやすい形では)あまり見られませんが、こういう直截な描写がけっこうな頻度で出てくるのもこの小説ならではです。
そして、
この作品の最大の特徴と魅力は文章そのものにあります。
最初の一文だけ読むと、「下手なのか?」とすら思います。 ”教養の点” において ”米人” と比較されているのは ”自分のようなにんげん” なのか ”自分” なのか、明らかに一文の中で混線している。二文目は明確な悪文とはいえないかもしれないが、時間軸が揺れているようにも受け取れる。三文目に至ってはほぼ破綻しています。
これは論理的に回収できない一文ですが、我々に手触りあるイメージを喚起させます。「私たちというにんげんは既にもうこの花園に入りきれないほど貧しくなっているのだ」でも「この花園にはもう入りきれないほど私たちというにんげんが既に貧しくなっているのだ」でも、何かが違う、足りない。
小島信夫はどう考えても意図してこの壊れた文章を残している。僕たちはこれらの時制と視点が錯綜した文章を、もちろんスラスラとは読めないが、スラスラとは読めないからこそその引っかかりが読み手の想像力を作動させます。
整然さは小説の文章にはときに不必要で、むしろ整然さがないことで生まれる力があるのですね。
ラジオでは「アメリカン・スクール」を更に突っ込んで語ってます。
ぜひ!
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