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一人旅の疎外感と魂の共鳴について

一人旅ばかりしていることの理由として、単純に旅仲間がいないことに加えて、人があまり得意でないということがあげられる。

私は常に人の顔色をうかがっていたり逆にうかがえていなくてやらかすタイプの人間なので、よほど気心の知れている人が相手でないと遊びだとしても一緒にいて疲れてしまう。

「魂の共鳴(※同じ時間をすごし同じ気持ちを共有することにより親密になることを試みる、または親密になったというエビデンスを残す行為)」が不得意なので、名目上遊びではあるが事実上の仕事である接待ゴルフや飲み会で疲れてしまうのと同じ現象が、集団旅行で起きてしまうのだ。

一人旅は人との交流を長期間に渡り遮断できるので、そういう意味で都合がいい。

地元の方向けの店で店主と常連が話しこんでいる。よそ者の私はすみっこで黙々と出されたものを食べる。

遠く離れた知らない土地で知らない人に囲まれて知らないものをだまって食べるという「魂の共鳴」の対極の行為だ。それゆえに、その疎外感が心地よく感じるのかもしれない。

補足すると、あらゆる外部からの干渉を拒絶しているわけではない。

「魂の共鳴」に満たない、長い棒で離れたところから突き合う程度の交流は嫌いではない(人見知りなので緊張はするが)。

上の写真の刺身を食べながら、初めて会った店主や常連の方に仕事の悩みを打ち明けて、最後は握手して別れたことがある。

そういう、共鳴に満たない、長い棒での突き合い程度であれば逆に旅の醍醐味といえる。

あらゆる外部からの干渉を拒絶しているわけではなく、「魂の共鳴」に満たない程度の突き合いであれば可能ということは、逆に意識せず「魂の共鳴」が自然発生するような旅仲間がいれば、同行してもいいのかもしれない。

だがそれほど気の合う仲間は、まずは意識して「魂の共鳴」をする苦労を経由しないと見つけられないのではないか、そもそも私は旅仲間がほしかったんだっけ、一人旅で満足しているのならいらない苦労をせずとも一人旅でいいのではという矛盾も感じる。

会社など公共の場でよく聞かれる「一人旅ってさみしくないの?」という質問に対してのアンサーを文章にしてみたら思いのほか口には出せないキモい内容になってしまったので、今回はこれくらいで失礼します。

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やまざき にんふぇあ
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