【新潮文庫の100冊濫読④】「暇と退屈の倫理学」自分らしく生きることが良しとされているのが今期のトレンド?


「東大・京大で一番読まれた本」というキャッチコピーにまんまと踊らされ、購入。これで私も知識人階級に仲間入りか。

著者の國分功一郎がまず初めに述べているのは、「消費者の需要が先にあり、それを生産者が感知してモノを生産する」のではなく、正しくは「供給側が需要を左右している。つまり、生産者が消費者にあなたが欲しいのはこれなんだと語りかけ、それを買わせるようにしている」ということだ。

これは正直めちゃくちゃ実感を伴う話だ。SNSを見れば美味しそうな食べ物や可愛い洋服、コスメの情報が大量に流れてきて、気がつけば物欲が出てきている。さっきまで微塵も食べたいだなんて思っていなかったミスタードーナツのが食べたくて仕方なくなる。街中にやたらある脱毛の広告やら友達の脱毛した発言やらで「あぁ脱毛しないとなあ」と思ってしまう。(人類はみんな毛が生えてるのがデフォルトだったはずなのに毛がない方がいいなんて言い始めたのは一体どこのどいつなのか。)友達みんなが見ているからネトフリを契約して映画やドラマを見漁る、映画化してやたら宣伝されてるから気になって原作の漫画を見てみる、本当に自発的に何かを欲したことなんて、あったのだろうか。

著者は、それを暇が搾取されている状況である、と言い表す。そして、なぜ暇は搾取されるのか、それは人が退屈をすることを嫌うからである。と論を展開する。そしてこの本では「暇のなかでいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきか」ということを明らかにしていくのだという。正直めちゃくちゃ知りたいそれは。

ちなみに私はこの本の第1章しかまだ読んでいない。第1章しか読んでいないのだけれど、あまりにも面白かったので、とりあえずここまでの感想を備忘録的に記したいと思う。



そうは言うものの、感想がうまく書けない。なぜならば私はこの本を読んで大変感銘を受けたものの、まだそれを実感として己の中に落とし込めていないからだ。とりあえず本の中で印象に残った話を箇条書きで書いていく。

●暇と退屈になやまされている人は、大義のために死ぬのをうらやましく思うという。しかし、食べることにさえ困っている人は少なくとも、大義に身を捧げる人間に憧れたりはしないはずだ。
→確かに。「僕は勉強ができない」の主人公も全く同じようなことを言っていたので、あの小説を書いた山田詠美は天才だと思う。

●パスカルの話
人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていられないというのはつまり、部屋に1人でいるとやることがなくてそわそわするということ、つまり退屈するということ。
部屋にじっとしていられず外に出て、不幸を招く。部屋でじっとしてはいられないから、気晴らしでウサギを狩りに行っているだけ(=趣味などにうちこむ)なのに、自分はウサギが欲しいからウサギを狩るのだと思い込む。欲望の対象と欲望の原因をとりちがえている。そしてその気晴らしは簡単に達成できるものではなく、あるていど、苦しみや負荷のような負の要素がないといけない。
つまり部屋でじっとしていられず、退屈に耐えられず気晴らしを求めてしまう人間は、苦しみを求めている人間。
→人間の苦しみは全て、退屈に耐えられないからこそ起こる。それならば、退屈に耐えられる人間はより苦しまずに人生を送ることができるのだな。
これは仏教でも似たような考え方があった気がする。うろおぼえ。人生は山あり谷ありだからこそ、幸せを感じることができる。山も谷もなくて平坦な道であれば、少なくとも苦しくはないだろうけれど幸福も感じることはない、という考え方。私は幸せを感じたいし退屈は嫌だから山と谷を甘んじて受け入れます。

●「人と違う自分になりたい」「自分らしく生きたい」という感情は、誰もがいつも感じているように思えるけれど、実はそうではなくただの「ロマン主義」。
→たまに聞く「今はコンプラの時代だから」「今は多様性の時代だから」という言葉に少しモヤついていた。でも、本当に「そういう時代」だっただけなのかもしれないなとこれを読んでおもいました。所詮、長い歴史の中でいまはこの考え方が「流行っていて」私はそれに影響されているだけ。自分らしく生きたい、という感情が人間の本来の欲望であるなんていうのは疑わしいのだと。
そう思うと、人々共通のモラルのようなものだって疑わしく思えてくるね。


おわり。

これを書いてる時、目の前で男女二人組がめちゃくちゃ恋バナしていた。他人の恋バナを聞くの好き。あんまり良い趣味じゃない。

おやすみ。

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