見出し画像

たった一人でも味方がいれば、子どもは育つ

これは、私の個人的な考えですが、たとえ、親がいなくても、子どもの傍にたった一人でも愛してくれる人がいれば、その子どもはすくすくと育つのではないかな、と思ってる。

昨日、古いPCに入っている情報を整理していたら、祖母が亡くなった時に私が作った弔辞が出てきた。祖母が亡くなったのは14年前。まだ子ども達が小学生の頃。弔辞には、私と妹が小さかった頃のエピソードと、私の子ども達と祖母との思い出が綴ってあった。

私の母はこれまでに2度離婚。最初の離婚は、私と妹が小学生の時。母は私と妹を置いて他の街へ引越ししてしまったので、私と妹は近所に住んでいた祖父母の家に住むことに。祖父母の家には母の兄と姉も住んでいて、私と妹が物心つく頃からご近所だったので、一緒に住むようになっても何も生活に変化はなく、ただ父も母もいなくなったという感じでした。祖父母や叔父叔母がいるので寂しいということはなかったけど、母は私や妹よりも好きな人がいるんだ...と思った。

でも、祖母よりも若いお母さんがいるお友達がとてもうらやましかった。小学校の授業参観、お友達は若い綺麗なお母さんが素敵な笑顔でやってきました。我が家はいつも祖母。年老いた小さな祖母が若いお母さんの中でもっと小さく見えたのを覚えています。大好きな祖母が来てくれて嬉しいけど恥ずかしい、恥ずかしいなんてひどい私…複雑な気持ちだった。

それに、祖母の作るお料理は田舎料理ばかり。パンケーキとか、ちょっとハイカラなものも食べてみたいけど、祖母は作り方がわからない。それで、祖母は近所のおばさんにお願いしたのかな。私はそのおばさんの家で、おばさんにパンケーキの焼き方を教えてもらって一緒に食べたことがあった。なんだか、祖母にわがままを言っている子どものようで恥ずかしかった。(子どもだったんだけど)

5年後、母の再婚で一緒に暮らすことはなくなったのだけど、夏休みや年末年始、長い休みはいつも祖父母の家。母の2度目の離婚で、しばらく私と妹と3人で暮らしてたけど、やっぱり母は好きな人ができてどっかに行ってしまった。母の2度目の離婚の時は私も妹も高校卒業、大学生の時期で、祖父母も叔父叔母もが私達の学費をなんとかしてくれたのと、私も妹もアルバイト。ここまで大きくなれたら、もう大丈夫、という感じだったが、ことあるごとに祖父母や叔父叔母のところへは帰ってた。

「もぞこくてなぁ(かわいそうでなぁ)、親がいないし寂しかったんだろうなぁ…」と祖母が言った。

大学の休みで祖父母のところへ帰ってて、祖母と、私が妹と良く喧嘩したという話をした。私と妹が喧嘩ばっかりするので、祖母が喧嘩しやすいように、私と妹をひもでむずびつけ、「好きなだけ喧嘩しろ~」と叫んだ。そうしたら、私達が喧嘩をやめると祖母は思っていたようだった。でも、私はとってもいやな子で、そんな祖母の言いなりになるのがいやで、妹を押したりつねったり。どこでその喧嘩が終わったのか覚えていない。そんな光景をみて、祖母がそう思ったそうだった。

大学は祖母のいる東北へ戻ると言ってたのに、結局、京都の大学へ。大学を卒業したら東北で就職...と言いつつカナダへ行った私。カナダから帰った時には今度こそ東北で仕事を見つけようと思ったが見つからず、逆に香港で仕事を見つけてまた日本を出て行った私に、祖母はニコニコしているだけだった。叔母も叔父も何も言わない。ただ、そこで私の話を聞いているだけ。

日本に戻り、主人と結婚。子どもが生まれたら、私の子ども達はひ孫ちゃん。祖母は子ども達にとってはひいばあちゃん(曾祖母)。私が子ども達の前では、地元の方言で「おっぴばあちゃん」と呼んでいたことから、子ども達も「おっぴばあちゃん~~」と呼んでいた。

「おっぴばあちゃん~」って子ども達に呼ばれると祖母はほんとにうれしそうに眼を細め、「めんこいな~(かわいいなぁ)」とニコニコ笑っていました。

子どもの頃はいろいろありすぎて、そこにある幸せも見えなかった。
愛してくれる親はいなかったけど、祖父母もいたし、叔父叔母もいた。

きっとたった1人でもそばにいてくれる人がいれば、子どもってすくすくと育つんだろうなぁ。


(👆母は3度目の結婚。たぶん3度目。まだ、その旦那様と仲良く暮らしてます。)

🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩
コーチングセッション / 海外体験サポートセッション希望の方はこちら
🌺2024年キャンペーン中🌺
今回、コーチング『ニーナの部屋』@ゆるゆるボーダレスに歩くのWebページを開設記念にキャンペーン開催中。詳しくはこちらをご覧くださいませ。
🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩🟩

いいなと思ったら応援しよう!