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ヒプノシスマイク『Light &Shadow』 空却考察 地獄はどこにある……
下品にギラついたナゴヤのイルミネーション
このリリックでナゴヤはやられたと思ったよね……。
実は私、仮想現実の世界ではシンジュク2丁目に住民票があるんですけど、現実世界ではリアルに本籍地が愛知県名古屋市なので、このリリックでダメージをもろに受けました……。
やっぱり都会の人から見る名古屋のイメージってこんな感じなのかな……。
ささしまライブとか栄とかクリスマスのイルミネーション綺麗なとこいっぱいあるんだけど……、あ、でも錦通りのあの感じとか下品って思われちゃうのかな……なんて、洗練された煌びやかさのある一二三から言われるとショックが大きいです……。
それはさておき、今回のナゴヤvsシンジュクのバトル、見ていてとても辛いものがありました。
争点となる精神論が崇高過ぎて、凡人の私はすぐに理解することが出来ませんでした。今こうしてバトルに決着がつき、やっと落ち着いた気持ちで噛み砕くことが出来ています。
でも……、正直こんな信念のぶつかり合いみたいなもので勝敗がつくのは辛すぎます。「鼻毛」とか「ボケカス」とかの方が気が楽でした……。
それぞれの地獄はどこにある
地獄見てきた俺たちの勝利 以上終了
おいてめぇ地獄なんて軽々しく言うんじゃねぇ
そんなもんはそこにねぇ 見える景色自分次第
前半のリリックです。
一二三と独歩の共闘に対して空却がこう言い返します。
シンジュクの民としては、空却の言っていることが間違ってはいないだけに、やり切れない気持ちになりました。
確かに考え方次第で生き方は変えられるかもしれません。けれど、地獄かどうかを判断するのはその体験をした本人です。
言わずもがな、一二三は十年以上にわたり女性恐怖症という地獄に苦しめられています。
独歩もまた社畜として残業地獄……それに加え、何をしても自分を認められないという自己否定の地獄の中にいます。
そして寂雷先生は医師として戦地に赴き、人の世とは思えぬ凄惨な場面をいくつも目撃したはずで、まさにそれは地獄絵図だったでしょう。また、殺し屋だった過去の贖罪として己を滅し、医師として麻天狼のリーダーとして誰をも救える存在になろうとしていますが、実のところ本当に救いたい存在は誰一人として救えていない……。
まさに三人は正真正銘の生き地獄に、過去も、今も、現在進行形で身を置いているのです。
それぞれの地獄の苦しみは、その地獄に身を置いている本人にしかわかるはずもなく、理解したいと寄り添うことは出来ても共有することなど出来ません。
であるにもかかわらず、そんな三人に対し「そんなもんはそこにねぇ」と全否定して切って捨てるのは、あまりにも早計で無慈悲なのではないかと感じました。
それに、「地獄はそこにない」「見える景色自分次第」と言い切る空却は弱冠19才。人生経験が豊富とは言えない年齢でそこまで断言できるのは何故なのか、単純に疑問を感じてしまいました。
ハタチそこそこのモデルに「アンタ、ヤリタイだけでしょ。」なんて見下された目で言われたら「違うわっ!クソがっ!」てめちゃくちゃ腹立つけど、瀬戸内寂聴さんに「男も女もケダモノですよ。」って言われたら「そうです私はケダモノです。」って頭を垂れる、そんな感じ……。
年齢が全てではないけれど、人生経験によって言葉は重みが増すと思ってます。だから空却にはよっぽど、そう言い切れるだけの何か、確固たるものがあるのかと……ずっとモヤモヤした気持ちを抱いていました。
……ですが、私は見つけてしまいました。空却くんの強さの訳を。
光ファイバの因陀羅網(いんだらもう)
死んだらもう一度武装する僧兵
スピード感でドカンと説くから
ついて来やがれそこの内弁慶
厭穢欣浄(えんえごんじょう) 永遠に問答
六文銭代わりに録音しやぁ
閻魔天(えんまてん)よりヒプノシスマイク
授かり代わり司るお前の運命
『ヒプノシスマイク-Glory or Dust-』の空却のパートです。『Light &Shadow』より後にリリースされたので気付くのが遅くなりましたが、太字の部分「閻魔天よりヒプノシスマイク授かり」と歌っています。
閻魔天とは死と冥界(死後の世界)、運命を司る天部(天上)の神です(引用:Wikipedia)。
空却はその閻魔天からヒプノシスマイクを授かったと歌っています。そして閻魔天に代わって自分がお前の運命を支配すると言っているのです。……凄い。
このリリックの内容のままに解釈すれば、空却は“閻魔天に会った=冥界に行った”ということです。冥界には色々な場所がありますが、もしかしたら空却は見学程度に地獄を見てきたのかもしれません。だから「そこにない」なんて言い切れたのかな?
まあこれは飛躍しすぎの解釈ですが、少なくとも空却はそれぐらいの強い意志と信念でマイクを握っており、一二三と独歩に対し投げた言葉も、単に売り言葉に買い言葉程度の軽いものでは無いということです。
そして空却のこの揺るがない信念の礎になっているのは恐らく、修行と経典なんだと思います。
空却は修行僧で、公式のプロフィールには父が成しえなかった荒業を成し遂げたとあります。なので想像するに、相当厳しい修行を日々行なっているのでしょう。また信心深いとも書かれているので、仏教の教えや経典を日々勉強し、己のものとする努力をしているのでしょう。
そしてそれによりもたらされる自信と誇りが、空却の揺るがぬ“信念の礎”となっているのだと思います。
「ヒプノシスマイク-Glory or Dust-」空却パートの考察については、私のツイートをあげておきます。
前半部分も……(私的解釈)
— nimm (@nimm73186487) May 18, 2021
“お前ら、拙僧がありがたい説法ぶっかますからよく聞いとけ!”
「今の人生が嫌で死んだら幸せになれるかなんて、考えたって答えは出ねえよ 、死ぬつもりなら覚えとけ!
それよりも、拙僧がこのマイクでお前の運命を導いてやる。だから死ぬんじゃねえ 、ついて来いっ!」“ pic.twitter.com/ah7U3CFw5m
空却が「Evil Monk」と名乗るわけ
冒頭に戻りますが、空却の「見える景色自分次第」という言葉は、そのまま仏教の教えでもあります。
仏教の基本的な教えを私なりに超要約して解釈すれば
「人間が生きている(煩悩がある)限り苦しみは終わることなくやってきて(四苦八苦)、その苦しみから解放される為には、まず己の苦しみを認め(苦諦)、その原因を見極め(集諦)、苦しみを苦しみとして受け入れた上で日々修行をし(滅諦・道諦)、何事にも動じない心を手に入れ(悟り)自分自身で価値観、世界観を変えていく」
ということだと思います。
つまりは自分の「心の在り方ひとつで見えている世界は変わる」ということで、その為の教えであり、修行であるということです。これは空却の言う「見える景色自分次第」と同義だと思います。
とすると空却は一二三と独歩に対し、仏の教えを説く者として当然のことを言ってのけただけなのです。 勢い余って出たわけでもなく、経験値によって導き出された言葉でもなかったわけです。……空却くん、なんかゴメン。君、凄いよ……。
そしてもうひとつ、これは私の想像ですが、空却が“Evil Monk”と名乗るのは“生きる”ということにこだわっているからなのかなと……。
仏教の究極の到達点は悟りの境地に行き仏に成ること、即ち成仏です。
輪廻転生を繰り返す限り永遠に人間は煩悩から逃れることは出来ず苦しみは繰り返す。だが悟りの境地を得て輪廻転生から解放された者だけは真の心の安らぎを得ることが出来る。即ちこれが“仏に成る”ことであり、煩悩の塊である人間の“死”ということだと思うのです。
しかし空却は『-Glory or Dust-』でも『開眼』でも強く“生きろ”と歌っています。
“生きる”ことは永遠に輪廻転生を繰り返すことで苦しみから逃れることは出来ません。ですが裏を返せば生きている限りは“自分次第で見える世界を変えられる”ということでもあるのです。
死んで冥界に行けばその後の行き先を決めるのはもう自分ではありません、冥界の主閻魔です。
ましてや自ら命を絶てば間違いなく閻魔が下す行き先は地獄。そう簡単に天国なんて行けやしないのです。
空却は修行や教えで得た経験から、そのことをわかっているのではないでしょうか。“真の地獄は死んだ後にこそある”、そのような考えがあるからこそ「地獄なんて軽々しく言うんじゃねぇ」「そんなもんはそこにねぇ」と一二三と独歩に啖呵を切ったのではないでしょうか。
それならば意地でも生きて幸福への道を自分自身で切り拓いた方がよっぽど良い。空却はそのように考えているのではないでしょうか。
そしてそんな考えを持つ空却に救われたのが、十四と獄なのではないでしょうか。
「Evil」とは「悪い」「邪悪な」とか「不道徳な」「不吉な」といったいった意味を持つ言葉です。
空却が自らを「Evil」と名乗るのは、悟りの到達点である「成仏」(注)を目指すよりもまず、「生きる」ことにこだわり自らの運命を自らの力で切り拓いていく、つまり“受け入れる”のではなく“抗う”ことに重きを置いているからなのではないでしょうか。
そしてその為には多少の過ちも必要であると考えている。これは仏教の基本たる「四諦八正道(しだいはっしょうどう)」に反しているとも思われます。
空却の“不道徳さ=evil”は見た目や言動のことだけではなく、仏教者としての信念が、本来の仏教の教えから“逸脱している”ということではないでしょうか。
(注:仏教の教えは“成仏=死”を目指しているものでは決してありません)
ここに四諦八正道についてわかりやすく説明されたリンクを貼っておきます。
結論として……
なんだか自分でもわからなくなるような難しい話をしてしまいましたが、でもじっくりこの曲を聴いていると、両チームが言ってることって同じなんですよね……。
一二三も十四も独歩も辛い現状からの突破口を開くのは自分自身で、それを支えてくれるのは仲間の存在だって言ってます。(寂雷と空却は導く者としての在り方を歌っているのでひとまず脇に置いておきます。)
「運命を共にする」も「命はれる家族」も同じです、要は「一蓮托生」。
私はヒプノシスマイクはラップと絆のプロジェクトだと勝手に思っているので、結局ここでもなんやかんや争ってはいるものの、やっぱり一番大切なのは“絆”なんだなと思いましたよ。
ただ2チームでスタンスが違うだけ。
麻天狼はどちらかというと寄り添う感じ。お互いの弱さを認め補い合いつつ道を指し示していく感じ。後半のリリック「互い高め合い」や「隣見ればそこにいる」が一人じゃない絶対的な安心感を与えてくれます。そう、まさに三人が灯火のように優しく私達を照らしてくれるわけです。
一方のナゴヤはもっと力を合わせていく感じでしょうか。空却のリリック「三人いれば拙僧に敵はない」は「三人寄れば文殊の知恵」の諺を連想させます。また十四が言う「シンフォニー」も三人の力が融合して新たな力が生み出される様がイメージできます。
ナゴヤの絆は個々に手にしていた松明が合わさって大きな炎となり、三人を先頭にしてみんなを導いていく、そんな感じでしょうか。
結局このナゴヤとシンジュクは、言ってることは同じだけどそこに向かっていくアプローチが違っていて、そのどちらに共感するかということが勝負の決め手になるんですね……。
そんなん、決められるわけないじゃん……。
私から見ればみんな偉いですよ。自分が19才の時なんて、バイトで稼いだお金で何して遊ぶかってことしか考えてなかったし、29才の時はノルマと目の前にぶら下げられた人参に向かって死物狂いで走ってたことしか記憶にない……。
人を救うとか導くとか……自分以外の人の事なんて考えたことなかった……。みんな凄いって_:(´ཀ`」 ∠):
結論……この勝負、弁護士の天国獄先生の優勝✋
私、獄先生の言ってることが一番冷静で大人だと思うんです。
苦しみの根源となっている悪は法的に解決して、そこから先は自分で道を切り拓けって。
みんなの考えを総括して更に自分の考えもプラスする……完璧。
私には見えますよ、寂雷先生に隠れてこっそりと一二三と独歩に名刺を渡してる獄先生の姿が……。
以上終了っ!
これは私の個人的な解釈です。なので色々と解釈ちがいや根本的な間違いが多々あるかと思います。
特に仏教思想については私はズブの素人なので、逆にご指摘いただきご教授いただけたら有り難いです。
またナゴヤディビジョンについても知識は浅いので、間違いがあれば申し訳ありませんがご指摘ください。
長文をお読みいただきありがとうございました。