裁けない罪

※ドラマ「アンナチュラル」のネタバレがありますご注意ください


アンナチュラルというドラマをご存じだろうか。

石原さとみ主演、逃げ恥の野木亜紀子脚本で2018年春に放送された。

法医学にフォーカスをあてて不自然死(unnatural death)の究明をしていく話。最近ではコロナウイルスをテーマに扱っている事件があったことから再注目された。

では、ここでは本ドラマの第七話「殺人遊戯」について書きたい。


まずはあらすじから。


主人公の三澄ミコト(石原さとみ)のもとにあるメッセージが送られる。法医学について興味があるという少年からのものだ。メッセージにはURLが貼られていて、それは「殺人生中継」という配信だった。

実況の赤パプリカのフィルターをつけた人物は、自分は人を殺したという。赤パプリカは死体の様子を撮影し、そのショッキングな映像はネット上で急速に広まっていく。そして生配信の視聴者が10万人を超えるまでに死因をミコトに解明しろと挑戦を投げかけてきた。

画面越しの少ないヒントからミコトたちは事件の真相を究明していく。


※以下ネタバレ


赤パプリカのフィルターを付けた人物は私立高校に通う白井という少年だった。死体は白井の友達である横山。二人は同じクラスメイトからいじめを受けていた。事件の前、いじめという現実から逃避するため、ふたりは「遊び」として偽装殺人を計画していた。白井にとってはあくまで遊びだったが、加速するいじめに耐えかねた横山は自ら命を絶ってしまう。いじめの主犯者たちが自分を殺したように見せかけるために。

しかし不運なことに、主犯者たちは横山の死亡時に万引きをしていた。アリバイが成立し、殺人事件としていじめていたやつらを糾弾できないことを悟った白井は、配信を通していじめをなるべく多くの人たちに知らしめようと本件の配信を行ったのだ。

白井はいじめの事実を世間に訴えた後、自ら死を選ぶつもりだった。しかしミコトたちの必死の説得もあり、彼は横山の分まで生きることを選び、事件は幕を閉じた。


私ははじめて放送を見た直後、涙腺が崩壊した。

録画を見直して、現在進行形でも泣いている。

いろんな感情や思いがあふれてきた。


『法律では裁けない「いじめ」という犯罪』


ミコトはいじめをこのように形容している。

刑法には99条から犯罪各種が定められているが、そのなかに「いじめ」に該当する罪はない。日本国憲法は罪刑法定主義を定めていると解されるため、法律に定められていないものは「犯罪」として裁くことはできない。ゆえにいじめは裁くことはできない。

例えばストーカ―。これは現在は迷惑防止条例違反として処罰することができるが、法改正されるまではストーカー被害を事件として立件化することはできなかった。そのため、ストーカー被害を訴えても警察は効果的な対応をすることができなかった。しかし、エスカレートしたストーカーの帰結として被害者がストーカーによって殺されてしまう事件がマスコミに取り上げられた。これにより世論がうごき、法改正するに至った。


では「いじめをしてはいけない」、と新しい法律や条例を制定すればいじめは減るのか。いじめをした者たちは罰せられるのか。

私が思うに、残念ながらそれは難しいと考える。それはいじめがストーカーと違って、どこからがいじめなのかの基準が定かでないからだ。


いじめの基準がないことはドラマでも暗喩されている。

白井は横山がクラスメイトから跳び蹴りをされたり金銭を奪われているようすを「いじめられている」と言っていた。

一方で学校教諭は「仲がいいことの延長線上」「いじられていた」と表現していた。


「いじめ」と「いじり」

言葉の響きは似ているが、両者は決定的に異なる。

いじめはよくないがいじりはOK、な空気が通説的に浸透している。


だが、どうやって両者をわける?


バラエティでよく見る、相手を茶化したりからかったりすることはいじり

相手が笑っていたらいじり

まわりが止めなければいじり

暴力がなければいじり


誰がそんな基準を立てた?

いや、だれも立ててない。そんな基準なんてない。「いじめ」が何かなんて定義することはできない。

だからあの教諭が言っていたような、都合の悪いことを隠すように「いじり」と言い含める。被害者にとって苦痛であってもそれは悪意のない「いじり」と受け止められてしまう。いじめといじりが混在してしまう。


いじめを定義することはできない

傷ついているかどうかは外面だけで判断することはできない


たとえ相手が笑っていても、家に帰って一人で泣いているかもしれない

暴力がないようにみえても、見えないところでけがをしているかもしれない。心に傷を負っているかもしれない

傷つけるつもりがない軽口も、相手にとっては死にたくなるようなことかもしれない


「いじめのつもりはなかった」

「いじりの範疇だった」

「傷ついているとは思わなかった」

「相手の心が弱かったのでは」


被害者の心の傷は被害者にしか理解できない。見えない。だが、その傷を見ようとしない、理解しようとしない人がいる。

彼らは「いじり」ということばを使って、その傷を見ないまま、傷なんてなかったかのように扱う。


そんな世の中。


そんな世の中で「いじめを罰する法律」ができたとしても、万が一「いじめ」の定義ができたとしても


相手の心の傷を無視して踏みつけて砂をかけようとする人がいるのなら

その傷は「いじり」という戒名を彫られ墓の下に埋められて腐って消えてしまう。


法律ができても相手の心の傷を見ようとしなければいじめは裁くことができない

まさしく、「法律では裁けない犯罪」となるのだ