カスカフェフェス 開催に寄せて
明日明後日とカスカフェフェスというものを催します。
選りすぐりのカスクリエイターたちがカスみたいなカフェ謎を持ち寄るフェスと銘打っています。
今回このnoteで説明することは単純明快です。カスカフェフェスというものが、カスでカフェでフェスでありながら、そのどれの否定も成り立つものだということです。
カス謎はカスではないです。それはクソ謎がもはやクソではないことと同じです。
私が日々掲げているクソ謎の看板の走りは、大学の謎解きサークルK-dush2内での企画「クソ謎王決定戦」にあります。なぞのしという先輩が作ったこのLINEグループは、もともと競技謎解き「解神」の対策のために作られたものでした。幅広い問題を集めるためにあえて「クソ謎」とハードルを下げていたのだそうです。
そこに紛れ込んだにくまきは、謎をたくさん出しました。にくまきは当時からもうおかしかったです。クソ謎王はみるみる「変な謎を出し合い、変な謎に適合できる勝者を決めるグループ」に変わっていきました。自分が入った段階では6回しか開催されていなかった大会は、数年のうちに90回ほど開催され、K-dush2を裏で操る黒幕と化していきました。
クソ謎という言葉に定義はありません。それどころか、意味となる境界もないかもしれません。あるのは抽象的な方向のみであり、その方向性が醸成されていく雰囲気こそがクソ謎であり、移り行くものなのです。
今、改めてクソ謎を集める会合を開くことは自分にはできませんでした。自分のクソ謎に対する認識はその過渡期にくらべてより具体的に、まさにコンクリートのようにねちゃねちゃと固まってしまっています。クソ謎であるものとそうでないものが存在してしまうのです。クソ謎の魅力は、謎からも、クソ謎自身からも離れているところだと思います。定義のないものを複数人でつつきあうことでしか真のクソ謎に触れることはできないのです。
なので、カス謎をつつきましょう。それがクソ謎に触れることなのです。
謎解きとクソ謎、同じじゃん…。
ただ名前を変えただけではありません。カスな謎を作っていくうえでの最初の方向性として、「こんなものでお金をとっていいのか…?」→「いい!」があります。このような悩みは主にクリエイター側が抱えるものであります。この悩みが存在する理由について少し考えてみると、「自分のブランド力が落ちる」「無為なクレーム対応が必要になる」「界隈全体の治安が悪くなる」などあるでしょう。でも、こんなものは杞憂なのです。それよりも、いらん心配をしたせいでこの世に生まれるはずだったカスな謎が消えてしまうこと、それはプレイヤー側にとっての大きな損失であるはずです。これは間違いないでしょう。
カスカフェフェスはあらゆる面で「許し」を与え合う、慈悲の祭りなのです。
この箱には簡易的なルールがあるだけで、それがクリエイターとプレイヤーをやんわりと縛るだけです。ここで何をするべきかは各自が自由に考えることです。読むべき空気は薄いはずです。それは宇宙が広がるために必要なことでもあります。カスカフェフェスの第1回はそれだけ特殊なものになるでしょう。第2回、第3回にはない真空状態は、カウンターを決める拳になんの抵抗も与えません。
あとドリンクとかはないのでカフェではないですね。
あとそんなフェスっぽさはないはずです。
謎解きという文化がさらに発展することを願い、生と死の境目にあるカスの謎を置き続ける、それこそが宇宙開発であり、祇園祭であるのではないでしょうか?カスであるがゆえに守りを捨てることができたコンテンツを通して、カスクリエイターの熱く冷め切った思いに触れてみる、そんな夏の始まりをお届けします。は?もし人が来すぎたら追い出します。カスなので。