匙と道
ふと見た星座占いだとか、そういうものが目につくときもあるだろう。普段からめちゃくちゃに信奉している訳ではなくても、ああ、と何か耳の裏を走っていくような、そんな感覚があるときが。え? ない? じゃあなくても良いけれど、それがある、ように感じるときがある。それを気の所為と言ってくれても構わないし、科学的論拠の大好きな僕はそういう話を期待している。でも間違わないで欲しい、論破して欲しい訳ではないのだ。神秘を紐解いていった先に一体何があるのか、僕はいつか知ってみたいと思うのだ。それは実はなかなか人に伝わりにくく、だから僕はいつだって一人で本や画面に向かっているだけの痴れ者として扱われる。
まあ、そういう訳で星座占いが目についた。時折見るけれどもそんなにあてにはしてないものだった。だって同じ星座の人間が一体幾らいるだろう? そうやって考えるとこの占いにぴたりと当てはまる人間がいたとしても、その星座分の一とかであって、そういうのは企画的によくないだろうから、もっと範囲を広げたものになるはずだ。オカルトを信じるかどうか、なんて話ではない、単なる精度の話。満遍なく、とすると確信的な言葉は閉ざされてしまうことがある、でも別にそれは層を層として見るのであれば当然のことなのだ。
さて。
前置きが長くなったがそういう訳で、何かがぴん、と張ったような気がした。気がしたので、したがってみることにした。何せ今、僕は所謂粗大ごみの役をしているので暇で仕方ないのだ。その代わりに金もないが。その話は今は置いておこう、どうしてか必要なときには金が湧き出してくるものなのだが、それもまた、置いておこう。今は関係がない。つまるところ、〝そういう訳〟を幾らか経てたどり着いたのがタロットカードだった。占いに話が戻ってしまった。
実のところ、自分のものでなくても良ければタロットカードはあるのだが、その昔使ってみたときにどうにも拒絶されている感覚が拭えなかったので、当人に返したという思い出がある。冷たい、というか、絶対にお前の指には従わない、というか。
「相性が悪かったのかもねえ」
モノには人の念がこもるのだと、友人は言った。まあ、そのタロットカードはその人を主か友かはたまたもっと違うものなのか、分からないが認めていて、僕は認められなかったということだろう。そういうことはまあ、ある。相性の悪いものは本当に手に入らないし、無理をして手に入れても良いことはない。
ということで、自分のタロットカードを見繕ってもらうことになった。何をどう調べてもよく分からなかったので結局友人に頼って、あとはテストを幾らか繰り返して一つ気に入ったものを見つけて注文した。届くのが楽しみである。それまでに幾らか占い方というのをちゃんと学んでおこうと思う。ついでに友人が教えてくれたルノルマンカードというのにも興味が湧いたので、こちらはいろいろあって友人が贈ってくれることになった。こちらも届くのが楽しみである。
占いだとか、そういうものとどう付き合っていくか、それは個々人の捉え方だろう。しかし、とりあえず僕はすべての責任をカードに負わせようとは思わない。何か喋りたくなったときに話し相手になってくれる、そんな存在になってくれればなあ、と思う。