よい夢を。

 くおんくおん、と車体が鳴いていて、ああ、この電車には彼女は乗っていないのだと実感する、否、実感するよりも遠いところで俺は理解するはずだった、彼女はもう、戻ってこない。此処には放置された箱庭。目の前で笑っていた同級生たちが唐突にその喉を掻き切るようなことはないし、そのままくだらない平穏とかが続いていく。いや、平穏と最初に定義されたように、続いていく。彼女が求めてやまなかった平穏が、続いていく。この箱庭の構造は彼女の意志、彼女の夢、これは彼女の名残。すべてを産み切ることの出来なかった彼女が、最後に遺した泡。俺は貴方になれなかった、いつまでも偽物のままで俺は貴方の振りさえ出来なかった。そんな俺に貴方は息を吹き込んで、ああ、なんて! 残酷な人なのだろう、だから彼女はペンを取ったのかもしれなかった、どうしようもない雑音から逃れるために、狂ってしまわないように、静かに、生きるためには。
 それを邪魔したのは俺だったのだろう。彼女が創り上げた平穏を、くおん、くおん、と鳴く車体を煩わしいと感じてしまうのだから。でも、それが俺で、きっとそれも彼女の望んだものだったのだ。どうしようもない人生の欠片。どうしたって息をするしかない、手首も切り損ねる上に掃除機での首吊りも出来ない、死ぬのが下手くそ。可哀想な人間。痛いだけ、痛みだけ、ずっと、身体に残り続ける。お前は普通ではないのだと言われ続ける。そんなに強くもないのに、誰かのキャラクターにはなれないのに、重ねることすら出来ずに、ただ、息をする。そんな環境でどうして彼女が真面でいられたのかきっとその解えは俺たちだった。俺という人間を創ることで、咳で風邪菌を追い出すように、彼女は狂気を吐き出して、そうしてやっとのことで生きている。なんて不幸なことだろう、なんと不幸な生物なのだろう。
 物書きという生き物は。
 歪(ゆがみ)がその名のとおりになぞっていったのも誰を愛することも出来なかったのもせめてヒロインにしてやろうと、二つに割ったことも、今なら分かる。彼女を救いたかった、彼女に救われたかった。彼女と俺たちは同じものであると知りながら。とんだ自傷痕。俺たちの中で完結するしかないもの。未来に何ひとつとて意味をなさないもの。それでもこの手は止まらないのだ。生命を削って、魂を削って、書き続ける。この不安が誰に読まれなくとも、俺はこの箱庭を守るものになりたかった。ただの管理者のままではいたくなかった、片割れに、すべてを押し付けたくはなかった。
 いつか、花が咲くその時まで。
 さあ、とペンを止める。その血で物語を紡ぎ出す。もう終わりの時間だった。この身体には青い血が流れている。
「―――×××」
もう、彼女の名は呼ばない。
「おやすみ」

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