飯塚の《円相図》

昼下がり銀行にお金を下ろしにいった帰り、面白いものを発見。

植え込みに、ゴミが三つ。

ひとつ目のゴミはわかる。でも三つ目は一体、何を思って差し込まれたのか。高校生の男女が、植木にゴミを差し込むのも楽しい年頃でそうしたのかもしれないし、もしかすると、三つとも一人のおっさんのイタズラかもしれない。


信号が変わるまで見つめる。
暑い日差しの中、三つの連続性がつくりだすリズムが心地よい。自然のなかに人工物が、連続性を伴って表出するというのは日本人にとってはどこか懐かしさを感じさせるものなんじゃないか、と思ったりもする。

(引用: https://about-kyoto.net/363/)

たとえば、日本庭園のポツッポツッと置かれた巨石。フランスの記号学者ロランバルトの評論の中に、こんな言葉がある。

《禅の庭》

どんな花もない、どんな足跡もない。

人間はどこにいるのか?

岩石の搬入のなかに

箒の掃き目のなかに

つまり表現体の働きのなかに、いる。


自然の中に人工物、といっても、田舎の電柱のように運用上の都合で存在するものもあれば、今回のように無意味に表出しているものもある。となればこのゴミ達は、飯塚の枯山水とでも呼ぼうか。


信号は青になった。


禅といえば、禅の美術にも○はよく見受けられる。○は禅において空虚や無限を意味し、「円相図」と呼ばれる。

さっきの飯塚の枯山水に似ている絵を記憶の中から手繰り寄せた。

日本の現代美術家、村上隆の《円相図》
(引用: https://www.cinra.net/news/20151104-takashimurakami)


円相関連ではこちら、我らが福岡市美術館の所蔵、
仙崖義梵の《円相図》(引用:福岡市美術館公式サイト)

「これ食ふてお茶まひれ」

僧が自分の悟りの境地を示すために描く円相を、大福に例えるという茶目っ気たっぷりな作品。美味しそう。

○描いただけで美術なんて、石置いただけで庭だなんて。同時代の西洋人にとってはきっと規格外のことだろう。こんな話、高校の時の現代文で似たような評論を読んだことがあるような気がする。


ヨーロッパ式の庭園は、左右相称で、花壇は幾何学的な造形で作り込み、噴水ドン!彫刻ドーン!と人間の造形意思丸出しだが、日本の庭園は「行雲流水」という言葉に象徴されるように、いっさいを、自然まかせにすることを良しとしてウンヌン、みたいな内容。


昔から災害が多い国だったからなのかなあ。

飯塚の枯山水(もはや円相図と呼ぼうか)も、その造形的な面白さの他に、どうせすぐ植え込みの木が伸びてゴミは中の方に埋もれ、次前を通ったときには見れないだろうという一過性が好奇心をくすぐる。



よほどのズボラでない限り、街の植え込みには定期的に人の手が入るわけだが、
noteを検索していると大西さんという方の記事に「カス木」というのものがあった。

街中の、「えっこんなとこ植栽いらんやろ!」ってところに、手入れをなされずに放置されている(虐待を受けている)木のことをそう呼ぶらしい。めっちゃおもしろい、、。

今度はカス木を探してみようかな。

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