見出し画像

自由に生きる。ファイナリストとしてシンプルなメッセージを「Beauy Japan 2023」で。


「わたしはわたし」
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

このシンプルで簡単な答えに辿り着くまでには
わたし自身、たくさんたくさん遠回りをしてきました。

今、私は自由です。
私らしく、自由に生きています。

.



こんにちは!
改めて自己紹介をさせていただきたいと思います。


こども専門家
保育士の小西なつきです。

今は千葉県と沖縄県を行ったり来たり2拠点で活動してます。



私が保育士を志したのは小学校の高学年でした。
すでにやりたいことが決まっていた私は

保育士に絶対なる

という思いしか抱いていなかったように思います。
今考えたらやりたいことが明確だったことはカッコいいなぁと自分で思ったり。笑


小さい頃は物静かでとても冷静に状況を察知する子だったと思います。
三姉妹の末っ子の私。母におぶられてどこにでも一緒で、後々「あんたはどこに連れて行っても泣かずに静かにしてたよ」と言うほど静かにじっと周りを観察する子だったそうです。


そんな私は状況を察するのが上手な分、空気を読みすぎて“自分はこう!”とはっきり言えずにモヤモヤしていた気がします。


家族や親戚は仲良く、気心知れた人には心を開くものの、
いざ外へ出ると何だか別世界のような気分だったと思います。
挨拶はしなきゃいけないのは分かってるけど、どうも恥ずかしくてなかなか言い出せない子でした。

人との関わりはちょっぴり苦手なのもあり、私は自分の世界に入り込むのが好きでした。

自分の理想の世界を想像して鼻歌歌っていたような
いわゆるちょっと変わった子だったのかもしれないな😅



でもそれが私の心地いい世界だったし、誰にも邪魔されないし、ストレスのない安全な世界だったような。



私が住む場所は千葉県と東京都のちょうど県境ではあったものの、それほど都会ではなくちょうどよく自然もあって自然の中で遊ぶのが大好きな子でした。



つくしを取ってきてフライパンでソテーしたり
オシロイバナの種をつぶして粉を出して遊んだり
お花を摘んで色水にしたり

とにかく自然のもので遊ぶのが大好きな子でした



特に木が大好きで小学校の修学旅行のカメラには
友達との写真ではなく、木の写真ばっかり。笑


大きくなってから見てびっくりしました。
友達との写真が一枚もないことに。笑


小さな頃のことを思い返すとやっぱりちょっと変わった子だったかな、って。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

物心つく時から感じていた使命




高校を卒業し、専門学校へ進んだ頃には

“私はなんのために生まれたのだろう”

“いつか何かしよう”

漠然とこう思うようになりました。


まだこの頃は
それが何なのか、私は何をするために生まれてきたのか、知る余地もなかったのですが。


物心ついた頃から

自分はどうして生まれたのか

どうして人は生きるのか

そんなことを考えていたような気がします。


答えを探しても辿り着けない
そんなことをぐるぐると考えていたように思います。


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

馴染めなかった社会



社会人1年目にして

“どうやら私は社会に馴染めないぞ”

と言うことに早くも気づき始めました。


夢を叶え、大好きな保育士の仕事を手に入れたのにも関わらずその大切な仕事を手放すのは本当に辛い経験でした。


だけど

苦しい思いをするために生まれたわけではない


その思いが勝り、保育士を諦める決断をしました。


大好きな仕事を手放すって本当に辛いことでした。

でも不協和音を感じながらも受け入れたくない環境で働きながら自分の心を誤魔化すことはできない。
泣く泣く諦めた悔しい思い今も胸に刻まれてます。


海外へ行って開けた私の希望


なかなか馴染めない社会に辟易として、
30歳を機に日本の社会から逃げ出してオーストラリアへ。

そこは自由が待っていました。いわば、私の望んでいた世界。


自己主張するのが当たり前。
「Yes」or「No」二択の世界。


やっと自分の思いを言えるようになった気がしました。
そして、何より本当の意味での「自由」を知った気がしました。


海外に行ったことで私の自由度が増し、選択肢が増え、多様な考え方を受け入れ、
人として大きく成長することができたように思います。


コロナ禍での祖母の死


2020年。
沖縄に住む99歳の最愛のおばあが他界しました。


沖縄戦を経験している祖母でしたが、戦争のことを一切語らない人でした。
だけど、私はおばあの深い悲しみを瞳の奥に感じていました。


おばあの死に直面した時、


“残された命をどう生かすか”

そんなことを深く考えるようになりました。


聞けばおばあの兄弟は8人ほどいたけど
みんな戦死していたり、小さい時に命を落としていたり
おばあだけが生き延びてくれたと聞きました。


あぁ、私はこの命を繋いでもらったんだ
この命は当たり前ではないんだ



この命を大切に生かしていこう


そんなことに気づかせてくれたのは紛れもなく最愛のおばあの死がキッカケでした。


 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

自由にわたしらしく生きよう



私が今わたしらしく生きられているのは
周りの大切な人が私の個性を受け入れ、認めてくれているからこそ。

漂うように生きるこのスタイルを「わたしだから」と理解してくれているから。


私が自由でいられるのは、本能に従い、好きな時に好きなことを好きな人と、
自分が選択して行動してきたから。

誰にも縛られない自由な世界は自分の心だけが知ってる。だから心に従うだけ。


同時に
これからを生きていく子どもたちにも伝えたい、自由であること。

人は自由であればあるほど輝き出す


私はそう信じています。
だから自由な発想を止めないでほしいし、制限しないでほしいし、最大限に生かしてほしい!
そう思っています。


自然へ、子どもたちへの想い



おばあから受け取った命のバトン。


“私は何ができるのか“


それが何かは分からないで始めたビーチクリーン。

思えば自然が大好きなのに恩返しができていなかった。


始めてみたら
何もかもが合点していく感覚。


ゴミを拾うことで自分の心が洗われる
大好きな自然が喜んでいる
子どもたちに自然の素晴らしさを伝えられる
環境保護ができる


いい事とやりたいことの連鎖が始まりました。

心に従っていたら私のやりたいことに気付けた。そんなシンプルな選択、行動でした。


Beauty Japan 2023のファイナリストとして


私の伝えたい想いが頂点に達した日にちょうどお声がけいただいた
Beauty Japan 2023のコンテスト。


気持ちが高ぶっていて概要もほとんど聞かずに二つ返事で「出ます!」と言ってしまった。。


内面美というコンテストが素晴らしいぁと思う反面
こんな素晴らしいコンテストに私が出場して良いものか・・


だけど伝えたいメッセージはある!!


自分と向き合うコンテスト


そう思って自分らしく、ストレートに想いを伝えたいと思います。

みなさま温かい目でお見守りください🙏✨


小西 なつき


#BeautyJapan
#ビューティジャパン
#ちゅら島エリア
#BJ2023





いいなと思ったら応援しよう!