デザイナーの手の内
デザイナーに対して「とりあえず作ってください、見ないとわからないから」というのは、建築家に「とりあえず家建ててください、住まないと分からないから」というのと同じことだ。
そんな苦言を呈してしまうくらい、デザイナーは「とりあえず見た目を作って」というオーダーに疲弊している。なんだか簡単にできて、軽いものだと扱われてることに不満を感じるし、「とりあえず作るデザイン」に報酬が支払われないことも多いからだ。
しかし、「住まないと分からない」というのは全くその通りであろう。
紙で印刷されたワイヤーフレームや機能の設計書の前では沈黙していた人も、実際に動くものの前では目を輝かせて言葉を発する。
まず物がないと人は話せないのだ。
そして「とりあえず作る」ためのツールも揃ってきている。完成したデザインを出す必要だってない。
私は、デザインの面白いところは思いついたらすぐ試して、トライ・アンド・エラーを繰り返すところだと思う。
デザイナーだって「見ないと分からない」。いつもデザイナーはデザインツール上で、試す、戻すを繰り返してる。何度も何度も。そのプロセスがあまり明かされていないだけだ。たとえ実際に手を動かして試さなかったとしても、試したデザインを頭の中で見ている。
だから「このボタンを小さくして横に並べたらどうですか?」と言いわれても「そのパターンはもう試した」となってしまう。
けれど「そのパターンは試した上で、今の案がベストなんです」と言ったところで納得されなかったりする。「見ないと分からない」から、仕方ない。
そして実際に見せると「これいいじゃないですか」と言われたりもする。
いや、そうすると全体の構成の中ではおかしくなるんです、全体構成まだできてないんですけど...。
デザインの完成形ではなくて、途中段階も試行錯誤もどんどん公開していこう、という思想はここ最近のデザインツールの動向を見ていても顕著になっている。特にもうアプリケーションのデザインは、アプリの中だけにとどまらず、デザイナーが一人で考える領域を越えている。
しかし、デザインの途中段階を見せたくない、という気持ちもわかる。公開すればいいじゃないか、なんで後生大事に隠し持ってるんだ、と思うかもしれない。でも、デザインの途中を見せるには、わりとスキルがいるのだ。
物があると人は饒舌になる。だからデザインの途中段階を見せると、「ここの文言は」とか「このアイコンは」とかなんだか今議論すべきでないところに話がいってしまったり、局所的な改善案を提案されたりして、収拾がつかなくなることが多い。
議論すべきでないことと議論すべきことの境界線はあいまいだから、とりあえず全部聞いた上で、取捨選択すればいいのだけど、ここで意見をおいて置かれることに不満をもつ人もいる。
そこは丁寧に説明すればいいのかもしれないが、そんな簡単な話でもないのだ。議論の場には、自分の影響力を見せたい人や、人を動かしたい人、リスクをいつも考える人、楽しくやりたい人、認められたい人...いろんな人がいるから。うまくやらないと、いいアイデアも浮かばないまま、目的がそれた折衷案ばかりが採用されてしまう。
家の設計図をみて、建築士ではない人に、ここの柱いらないでしょう、とかここに窓を作りましょう、とか言われて採用してしまうと、家が建たない。
加えて、デザイナーのアイデアには順当なプロセスを経ないものもある。完成形のイメージがふっと湧いてくることがあるから。
しかしそのイメージに従って作られたビジュアルは論理的に飛躍しすぎていて、見てる人を戸惑わせる。プロセスが分かりやすいと、いいデザインだと思えるのに。突然できあがったデザインを信用できない人もいる。
突然できあがったデザインに対して、嘘のプロセスの資料を作ったこともある。それも含めてデザインなのかもしれないけど、なんだか無駄な時間のようにも思える。
美しく使いやすいデザイン案をそのままリリースすることがどんなに難しいか、デザイナーはみんな経験している。とても傲慢な考えではあるけれど。
ところが、作りかけのものではなくて、完成されたデザイン全部をもっていって、その世界観で圧倒させると、何の問題もなく、すっと受け入れられたりするのだ。「素晴らしいですね」なんて褒められたりもする。そんな成功体験というか気持ちよさみたいなものが、手の内を見せることへの障壁になる。
デザイナーと、それを受け取る側の経験不足というのもある。
デザインのプロセスを公開して、一緒に作りましょうというのは、ただ単純に制作途中のデザインを公開すればいいわけではない。
今どの部分に焦点をあてて議論したいのかを明確にして、それてしまう話題を修正し、溢れてくるアイデアを殺さないように、でも惑わされないように立ち回る必要がある。結局のところ、そのためのコンセプト、そのためのペルソナ、そのためのカスタマージャーニーマップだったりする。
また、作りかけのデザインを受け取る方も、指示をしてしまってないか、自分の思い通りにしたいだけではないか、自問しなければならない。デザインを受け取る側も、単にデザインをお任せしていてはいけない。みんなでデザインするのは、楽しくてけっこう面倒なのだ。
けれども、そんなこと言ってられない。
多様なユーザーに対してのデザインを求められる今日のビジネスでは、デザイナーの頭の中だけですべてを把握して作るのは難しい。
デザインツール上でデザイナーが一人、試行錯誤するだけでは十分ではない。もっと外に開かなくては。一人ぼっちでがんばったって、できないことはできない ( ※1 ) のだから。
デザインってデザイナーだけの特別なものではない。
デザイナーも特別な人ではない。
デザインのプロセスをもっと開いていこう。その手の内をもっと見せていこう。すると不思議なことに「青のパターンも見たいな」とかいう意見にも、そうだな、それも面白いかもしれない、やってみたい、と思うようになる。
そして、一方、デザイナーのデザインを受け取る側でも、少々アクロバティックなデザインの飛躍を楽しんでもらえるようになる。
デザイナーが頭の中でやっている、いいデザイン、悪いデザインの判断も一度みんなに向かって開いてみるのがいい。実際そんな二言論的に切り分けられるものではないから。
デザイナーってデザインをデザインしているんだ。
見ないとわからないだろうから、とりあえず作るよ。ざっくりとだけどね。
少し無責任だろうか?
でも、そう思える瞬間が最近少し増えてきている。
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( ※1 )
社会は、テストとちがいます。
一人ぼっちでがんばったって、できないことはできません。
だからこそ、しらべて、見て、考えて、教えてもらって、
そして、それをさらに伝えることが必要です。
『 僕がロケット教室で気を付けている事。 』植松努のブログ
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