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インクルーシブデザインができること

インクルーシブデザインとは、共に考えるデザインの方法だ。
障害者や高齢者など、これまでサービスや製品でメインターゲットから排除されていた極端なニーズをもった人々を、企画や開発の初期段階から巻き込み、内包し、最終的にビジネスとして成り立つものにしていく。

排除されてきた弱者にフォーカスするという、その慈善的な要素や、理想とする所の類似性から、ユニバーサルデザインとの違いついてよく言及されるが、インクルーシブデザインは明確な原則に沿うのではなく、初期段階から共に考えて作っていくという部分においてアプローチ方法が異なる。

また、インクルーシブデザインを理解する上で少し注意が必要なのは、ここでいう障害というのは、社会モデルの障害であるということだ。

障害の社会モデル

社会モデルの障害は、属"人"的な障害ではなく属"境遇"的な障害だ。( 注1 )

かつて、身体障害や精神障害というのは医療の観点で捉えられていた。障害は個人の身体能力にあり、医療的な診断と検査によってその有無が決められ、障害に対する支援がなされる。これを障害の医療モデルという。

対して、障害の社会モデルでは心身の機能の障害と、社会に存在する障害を分けて考え、障害を社会的な障壁であると考える。

したがって、インクルーシブデザインでいう障害や弱者とは、高齢者や身体的な障害のある人など、医療モデル的な障害としてイメージされる従来の弱者だけでなく、外国人や貧困層、低スペックのパソコンを使用している人、など、社会的な障壁によってサービスや製品から排除されている人々をさしている。

境遇が異なれば、誰でも弱者になりうる。真っ暗の部屋に目の見える私と、目の見えない誰かが入ったら、弱者は目が見える私の方だ。

拡張するデザイン

近年インクルーシブデザインが注目されているのは、その拡張性によるところが大きいのだと思う。

アメリカ発祥のユニバーサルデザインと同じように、イギリス発祥のインクルーシブデザインも、最初は慈善的意味合いが強かったのだと思う。
しかし実際に取り組んで実績が作られていくうちに、その拡張性が有益なものだということが分かってきたのかもしれない。

インクルーシブデザインでは、極端なユーザーをデザインプロセスに巻き込むが、それは、その極端なユーザーの個別のニーズに応えるためではない個別のニーズから多様な視点を得て思考を拡張し、包括的なデザインを目指すためなのだ

個別のニーズに最適化された、閉じた世界をつくるのではないのだ。

潜在ニーズ

サービスや製品のについて模索するとき、それを届けるユーザーの潜在ニーズを見つけるのはとても重要なことだ。

しかし、ユーザーインタビューなどの定性調査をして、生の言葉を聞き、行動を観察しても、潜在ニーズを掘り起こすのは難しい。

なぜなら人は、欲しいものが何なのか全く分かっていないからだ。

もし顧客に、彼らの望むものを聞いていたら、彼らは『もっと速い馬が欲しい』と答えていただろう。
by ヘンリー・フォード

リードユーザー

インクルーシブデザインでは、これまで排除されきた強いニーズをもったユーザーをリードユーザーと呼ぶ。
時に極端にも思えるリードユーザーの強いニーズは、その他のユーザーの潜在ニーズの種となる。

たとえば、トイレの男女分けに困っている人がいる。
それに対して男女誰でも入れるトイレを用意すれば問題は解決するのだろうか。音姫なんてものがあるくらいだ、今問題なく男女分けされたトイレに入ってる人でも、本当は知らない人と排泄の空間を共にすることを望んでないのではないだろうか。

これは、リードユーザーを起点として多様な視点からトイレの男女分けを考えることで掘り起こされた潜在ニーズの種だ。
おそらく、男女分けされたトイレに困っていると感じていない、これまで対象とされてきた通常のユーザーにインタビューしても、そのニーズをキャッチすることは難しかっただろう。
では、そこからさらに発展させた場合どういったトイレの在り方が考えられるだろうか。

たとえば、会員登録フォームやアンケートの男女選択。
男、女、の他に"その他" という選択肢を用意するのは合理的配慮なのかもしれない。しかし、その前にその区分は本当にサービスに必要なのかよく検討する必要があるだろう。
人は女だから、男だから、その行動するわけではないだろう。
女性にうけるデザイン、男性にうけるデザイン、というものは確かにあるが、それも刷り込まれたイデオロギーにすぎない。そして新しい枠組みのもとに生まれてくる、これからの時代を作る子どもたちは、その区分を容易に超えてくるかもしれない。
男女の選択に何の疑問も持っていなかった人だって、その区分はない方がいいかもしれない。サービスを使うために自分が男であるとか女であるとか宣言する必要があるケースはそんなに多くないのではないだろうか。

ある視覚障害者は、note を VoiceOver で聞いている。
note のテキストを VoiceOver で聞きたい、というのは視覚障害がある人個別のニーズなのかもしれない。

しかし、VoiceOver で note のテキストが聞けたら視覚障害者でもコンテンツを楽しめる、だけではなく文字が見える人でも音声でテキストを聞ける。
" note を聞く" という体験が広がれば、文字が読めない人や、読むよりも聴くほうが好きな人にも書いたものが届く。スマホや PC の画面の文字を読むのが困難な状況、たとえば満員電車で note を聞くことが習慣になる人だっているかもしれない。( 注2 )

だって私は電車に乗っているとき VoiceOver で note を聞いているのだ。
( note の図表には Alt 属性がないので、できればキャプションをつけてくれると嬉しい。)

もっと包括的に考えてみよう。

ALS で目しか動かせない人が、視線で文字などを入力する装置は、手足が自由に動く人が、体を動かさずに操作できる装置になる。

手が不自由な人のために、ではなく、手が使えない状況でも使えるように。
目が見えない人のために、ではなく、画像が見えない状況でも使えるように。

手が使えないってどんな状況だろうか?
画像が見えないってどんな状況だろうか?

リードユーザーが多様で多彩な視点をくれる。そしてそこを起点に潜在ニーズの種を見つける。それが包括的なデザインに拡張する。

だからこそ、弱者たる個別のニーズをもったユーザーを、あえてリードユーザーとよぶのだ。弱者であることは価値になる。

それって、なんだか遺伝子の多様性によって拡張していく人類の様相みたいで興味深い。

包括的なデザインとビジネス

ユニバーサルデザインやアクセサビリティは、サポートが必要なユーザーに向けたコンテンツや、そもそもユーザーが多く、極端な個別のニーズだとしても、対応することがビジネスとして成立するような巨大な製品やサービスで適応されることが多かった。

インクルーシブデザインについても、現在は Microsoft や IBM などの巨大な企業が実践しているというイメージが強い。

しかしインクルーシブデザインは、単に弱者に優しく、というものではない。弱者の顕著化されたニーズから、他のユーザーの潜在ニーズの種となるものを発見できるという可能性を持っている。( 注3 )

個別のニーズを起点として最終的には包括的なデザイン目指すのだから、これは別に巨大な企業だけに利益をもたらすものではないと思う。弱者の強いニーズには、他のユーザーの潜在ニーズという宝が埋まっている。

ではどうすればいいのか、というと実はやることはこれまでとそう変わらない。対象となるユーザーの声を聞き、行動を観察し、整理して作り、検証する。ただ、その対象を今までよりも広げるのだ。これまで無意識に対象ユーザーから排除してきたユーザーを排除しない。それだけだ。

現状の仕組みとして、巨大な企業でないとそもそもリードユーザーを見つけるのが難しいという課題はあると思う。
もっとカジュアルに、リードユーザーと繋がれる仕組みがあるといいなと思う。リモートワークの副業などでリードユーザーが高額な報酬を得られるようなマッチングサービスのようなものがあればいいかもしれない。

デザイナーは人をもっと知らなければいけない。人間中心設計なんて言っているのだから、人間について知るのは当然だろう。

実際、UX デザインに真摯に取り組む人達を見ていると、さながら人類学者だな、といつも思う。

人間をよく知っているデザイナーになろう。いや、自分は人間のことを全然知らないということを知っているデザイナーかな。


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|注 1|
社会モデル、医療モデルなどについてはここが詳しいhttp://watashinofukushi.com/?p=1749
http://watashinofukushi.com/?p=3924

|注 2|

アクセシビリティに取り組んだら、全体のユーザビリティが向上するという話もある。

|注 3|


災害時は誰もが弱者となる。障害のある人の視点を得ることで、すべての人の役に立つものを作ることができる。


日常の延長のように楽しめる結婚式は、形式張った婚礼の儀式にあった障害を取り除いたことで、他の参加者の潜在ニーズを満たした。
とても素敵な結婚式だったのだろうな、と読んでて暖かい気持ちになった。

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