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インド旅行記6 川に捧げるAarti

※書き終わってから気付いたんですが
です・ます調ではなくなってますが、ただの文体揺れです。
お気になさらず。

前回、デヴプラヤグを訪れ
ガンジス川の始まりをこの目で観てきた。

ガンジス川(ガンガー)神話にも触れ
川の神秘さ、神聖さについても考える機会を得た。


思えば、川というのは東西を問わず
人類にとって切り離せない存在である。

多くの文明発展には川の存在があり
川によって農作物を育てる水が手に入り
運ばれてきた土砂によって豊かな大地が育つ。

だが時には、川は猛威を振るい
人々の生活を、命さえも飲み込んでしまう。

川は、ありがたく、人々を育み、豊かにしてくれる存在であり
同時に、恐ろしく、全てを奪う、畏怖の念を抱く存在でもあるのだ。

それゆえ、多くの国や文化の中で
川(あるいはそこに掛かる橋や渡るための舟)は
例えばあの世と此の世の境界線的な立ち位置にもなっている。


”行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し”

とは日本人なら恐らく必ず義務教育で習うであろう
鴨長明『方丈記』の書き出しである。

ざっくり現代風に訳せば

”川の流れは途絶えることなく、しかも常に新しい水と入れ替わっている。
澱んでいる所に浮かぶあぶくも、生まれては消えてを繰り返し留まることは無い。
人間の人生も、あるいは住居(財産)だとて同じようなものだ”

といったところだろうか。
なんとも儚い無常観が出ているわけだが、これは筆者の鴨長明が
実際に京都で暮らしながら竜巻や地震といった大災害を
幾度も経験してきたことに端を発しているからと言われている。
(なので、実際の所『方丈記』は無常感のある古典文学というよりは災害記と言っても良い内容だったりするわけだ)

そんなわけで人類は自然(もちろん川含む)と共に暮らしながら
時に恩恵を受け、時に恐ろしさを味わい
様々な事を感じながら今日までやってきたと言える。


今回のインド旅は、ガンジス川を主に置いたものに自ずとなったわけだが
それもまたさもありなん。
インドの人々にとっても、象徴的で神聖で豊かでありがたい存在であり
同時に危険や困難を運ぶこともある、と感じているのではなかろうか。
(後日訪れたウッタルカシという街は実際に大きな洪水被害を受けている)


川に捧げる祈り

前置きが長くなった。
今回はAarti(アルティ/アーティ)という
ガンジス川に捧げられる儀式を観に行った際の話である。

長距離移動を含む予定の合間に、休息を取りながら
リシケシュやその周辺で行けるイベントや場所があればと思っていたところ
今回もクマさんから情報を頂き、リシケシュの中部くらいにある
Triveni Ghatで毎日行われているというArtiを観に行くことに。

動画内でも触れているがGhat(ガート)というのは、川縁が階段状に整備されていて、川に近づく、あるいは入りやすくなっている場所の事で、インドではあちこちにあるらしい。
よってガートでは沐浴をしたり儀式が(葬儀も)行われやすい。
(既に訪れたニムビーチはそのように整備されていないのでガートではない)

Triveni Ghatはリシケシュで最大にして最有名なガートで
そこで行われるアーティもまた、非常に有名らしい。

川(の神)に祈りをささげる、というのは日本でもなじみのある文化だろう。
自然への敬意や畏怖があることの表れだと思うが
それにしても毎日行われるというのはすごい。

というわけで、リシケシュ北部からリキシャに乗って行ってみた。

カメラマン目線で補足をいうと
ぶっつけ本番だったので一度場所を決めると
人が増えてからは自由には移動できず、画角的にはつらいものが…

儀式を行っている方々がずらっと並んだ様子、その奥行き感を撮るなら
もっと前から斜め横から撮れればベストだったかな。

また暗くなってからの撮影だったので
さすがにアクションカメラのAction4は画質面で苦しくなり
Z9で撮った方が圧倒的によかった。(レンズは標準しかなかったが)
とはいえ動画も写真もという中では健闘したということで。


とはいえ、観光イベント並に観客がごった返しているのはさておき
意味は理解はできませんが、ヒンディー語の言葉や歌が流れる中で
夜の真っ暗なガンジス川に向かって火を灯した儀式が行われる様は
非常に幻想的で、訪れることができて良かったです。

リキシャの交渉さえできれば
リシケシュ北端からでも訪れやすく
マーケットでお買い物も楽しめるので超おススメです。