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『大学』『中庸』漢字検定1級模試の制作後記
第一弾の古典模試のテーマとして『大学』と『中庸』を選定しました。本記事では、その理由について少しく述べたいと思います。その後、『大学』と『中庸』の中で気に入った言葉をいくつか紹介したいと思います。私は専門家ではないので、以下は全て個人的な意見です。また、これらの古典の概要をある程度理解している読者を想定しております。より深く知りたい方は模試を公開した記事の参考文献リストをご参照ください。
本記事の目的は、自身の感想を整理することと、弊模試に挑戦された方に覚えていただ言葉の定着度を高めることにあります。漢字検定1級に合格する前は、模試倉庫さんの模試を解いた後に必ず「制作後記」を読むことにしていましたが、これは定着度を高めるのにはとても有益だったので、自分も後記の執筆に挑戦してみたいと思います。
多少のネタバレを含みますので、模試を解いていただいてから読むことをお勧めします。模試公開の記事はこちら:https://note.com/nikocren/n/n182a2668fbf5
『大学』と『中庸』の選定
『大学』と『中庸』は儒教の根幹的な考え方と目標を簡潔に纏めた書物です。儒教の神髄ともいえるでしょう。
日本では江戸時代から朱子学が主流となり、寛政異学の禁に当たり「正学」とされました。朱子学で定められた経典と学習順序で教育が行われていました。『大学』と『中庸』とは、朱子学における「四書五経」の「四書」に含まれています。朱子学では、15歳から『大学』を学び、その後『論語』→『孟子』→『中庸』と順番で学んでいきます。その後、五経の学習に入ります。四書は比較的短く分かりやすい一方、五経は長く難しいです。
江戸時代以降は、仏教や蘭学、国学、心学など、様々な教えが共存していました。時代が進むにつれて、儒教の枠内で朱子学と対立する陽明学の影響力も強まりました。明治時代に入るとキリスト教が普及しました。しかし、ここで注目していただきたいのは、四書は最も基礎的で普遍的な共通の知的財産であり、100年ほど前までは常識でした。明治〜大正時代の文学の倫理的基盤を成しており、人はその教養基盤を抜きにして『論語と算盤』などのような作品を読もうとしても理解に苦しむでしょう。内村鑑三(明治〜大正時代の最も著名なクリスチャン)は17歳の若さで洗礼を受けてクリスチャンになりましたが、わずか4歳の時から『大学』を素読させられていたようで、その著作は四書五経の影響が強く反映されています。
朱子学では、15歳から『大学』を学び、『論語』→『孟子』→『中庸』を順番で学んでいくと先ほど言いましたが、私は朱子学の提唱者ではなく、見る限り漢検勢の中には朱子学絶対主義者はいなさそうなので、漢検の模試作成において、朱子学の学習順に従う必要性を感じませんでした。
四書の中で『中庸』は最も抽象的で理解するのには時間がかかるとされていましたが、個人的には『論語』のほうが難しいと感じます。『大学』と『中庸』はどちらも明確なたテーマがあり、明確な構成で論理的に展開されています。一方、『論語』は孔子とその弟子たちの言行録であり、時代背景や登場人物についての予備知識がないと分かりにくい箇所が多いです。また、内容だけでなく、言葉や漢字の難易度から考えても、『大学』と『中庸』は古典の中では比較的理解しやすいと言えるでしょう。これらの書物には、儒教の真髄が凝縮されていると感じます。
しかし、短さと難易度が低いという点は、本番に近い構成の模試を作成する上で課題となりました。『大学』と『中庸』はどちらも短く、難しい言葉はそれほど多くありません。難しい漢字は主に五経からの引用文に集中していますが、『大学』と『中庸』の模試では、できるだけ『大学』と『中庸』のオリジナルの言葉を出題したいと思っていました。そのため、他の書物からの引用は問題文の候補からなるべく排除しました。例外として、『大学』伝の第10章の『秦誓』引用箇所からの「彦聖」と「黎民」を類義語の問題で使用しました。
この2冊だけでは漢検1級の模試が成り立たないと判断し、古典をもう1冊加える必要性を感じました。そこで、『小学』が候補に挙がりました。
『大学』は15歳から学びますが、『小学』は8歳からです。ここで「学ぶ」とは言っても、どのように学ぶか、私には想像しにくいです。難しい漢字が多いため、子供たちは実際にどの程度読めていたのか疑問です。それはさておき、『小学』も興味深い書物であり、それほど長くありません。
『小学』は「内篇」と「外篇」に大別されています。「内篇」は主に四書五経の言葉の紹介であり、「外篇」は主にその他の儒教の書物や、朱子の時代により近い人物(二程子など)からの引用です。残りの四書五経は別途模試を作成したいと考えているため、「内篇」を退け、馴染みの薄いほうの「外篇」から問題文を探しました。特に、原作が参照しにくい二程子などの引用文を優先しました。「酔生夢死」や「熟読玩味」の出典は、四字熟語辞典によっては『小学』となっている場合があります。
『大学』と『中庸』は、朱子学だけでなく儒教共通の書物であり、模試の作成において朱子学に忠実に従う必要性は感じませんでした。しかしながら、朱子学においてはこの2冊がとりわけ重要な書物であることや、江戸時代以降朱子学が主流であったことから、読み下し文は原則として近代日本人が馴染んできた朱子の解釈に従うものとしました。解説における章分けも朱子が付けたものです。
熟字訓・当て字は今回の模試のテーマと無関係のため、代わりに朱子学全般についての語選択問題を設けることにしました。やはり朱子学を贔屓しているように見えるかもしれませんが、長らく日本の学問の中心であった朱子学について、多少知識を深めたほうが力になるのではないかと考えた次第です。今後の模試でも、おそらく熟字訓・当て字はあまり出題されないと思います。
古典の学習と言葉の定着度を高めるため、なるべく原典に忠実な文章を問題文として採用するように努めました。そのため、問題文が通常の試験よりも長くなってしまっています。これは、今後作成する古典テーマ模試において避けられない課題ではないかと思います。
『大学』と『中庸』で出会った言葉
『中庸』第8章には「回の人と為りや、中庸を択び、一善を得れば、拳拳服膺として之を失わず」と書かれています。『大学』と『中庸』は座右の銘に相応しい言葉の宝庫であり、全てを心に刻みたいところですが、残念ながら記憶力には限界があります。そこで、最も有益だと感じた言葉をいくつか選び、これからの人生に役立てたいと思います。
【慎独】
『大学』と『中庸』の両方に登場する熟語です。少し長くなりますが、『大学』の当該する箇所「伝の第6章」を全文紹介します。模試を解かれた方は気づくと思いますが、この箇所のほとんどの文章を何らかの形で出題しています。
『大学』「伝の第6章」
所謂「其の意を誠にす」とは、自ら欺く毋きなり。悪臭を悪むが如く、好色を好むが如し。此を之「自ら謙(こころよ)くす」と謂う。故に君子は必ず其の独りを慎むなり。
小人間居して不善を為し、至らざる所無し。君子を見て而して后厭然として其の不善を揜いてその善を著わす。人の己を視ること、其の肺肝を見るが如く然り。則ち何の益かあらん。此を「中に誠なれば外に形(あらわ)る」と謂う。故に君子は必ず其の独りを慎むなり。
曾子曰く、「十目の視る所、十手の指さす所、其厳なるかな」と。
富は屋を潤し、徳は身を潤す。心広く体胖かなり。故に君子は必ず其の意を誠にす。
また『中庸』には、「隠れたるより見(あらわ)るるは莫く、微かなるより顕らかなるは莫し。故に君子は其の独りを慎むなり」とあります。
私は結婚していますが、妻にしないように言われたことを、妻がいない時にしようとしてしまう自分に気づくことがあります。あるいは、家事に手を抜いたり、教わったのより簡単な方法で済ませようとしてしまう時があります。食べたら怒られるものを口にしたくなることがあります。このような時こそ自分の人格が問われているように感じます。そのため、「慎独」という戒めは重要です。
儒教の古典ではこのような戒めがしばしば強調されていますが、偽善者を許さない教えと言えるでしょう。「本音」と「建前」が対立する時は、警戒が必要です。本音はいつか表に出てしまう可能性があります。そのような時にどうすれば良いのでしょうか。普段から本心を意思に従わせるように努力する必要があると思います。常に善い方向に意思を向けなければなりません。どのような人間になりたいのか、理想的な自分像を意識することが大切です。私にとって理想的な自分は「誠実な男」ですが、なりたい自分になるためには、時には「改心」が必要です。
ちなみに、『中庸』の言葉は、聖書はルカの福音書に奇妙に似ている文章があります。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」と。(ルカによる福音書 8章17節)
【天子より以て庶人に至るまで、壱是に皆身を修むるを以って本となす】
この言葉は『大学』の「経」、つまり最初のほうに位置されています。『大学』は「修己治人」の教えです。「身を修むる」、つまり「修身」とは、自分自身を磨き高めることを意味します。常にに向上心を持って、より良い自分を目指していきたいものです。
『修身』とは「八条目」の5番目の項目です。八条目の内容は「格物→致知→誠意→正心→修身→斉家→治国→平天下」です。私は為政者になりたいと思わないので、「治国」と「平天下」に興味はあまりないのですが、だれもが「斉家」辺りまではある程度関心があるはずだと思います。「斉家」のために「修身」が必要であり、「修身」のために「正心」が必要であり、「正心」のために「誠意」が必要であり、「誠意」のために「格物致知」、つまり学問と思考が必要です。この言葉で本当にすごいと思ったのは、為政者や富裕層だけでなく、全ての民に修身が求められているところです。学問の重要性の強調は儒教の特徴の一つと言えないのではないでしょうか。
これはもう一つ好きな言葉に繋がります。
『大学』伝の第二章には「湯(湯王)の盤(金属の盥)の銘に曰く、『苟に日に新たにせば、日日に新たにして、又日に新たならん』」とあります。
近年は「生涯学習」という言葉が流行しています。私はまだ30代ですが、一生かけても学ばなければならないことの本の一部しか学べないと感じます。しかし、常に理想を持ち、「なりたい自分」に向かって努力を続けることで、『中庸』で頂上とされている「聖人」にはなれなくても、少しは「仁」に近づくことができるでしょう。
【絜矩の道】
「絜」は漢字検定1級の配当外なので、通常の模試なら不適切な出題でしょう。
『海辞海』によれば【絜矩之道】とは「儒家において、当然しっかりと守り、実践しなけれならない道徳規範。鄭玄説は、「絜」をひっさげる意(挈と同じ?)に解して法則(「矩」=さしがね)を執り行う道とする。朱子説は、「絜」をはかると解し、さしがねで測る意から、他人の気持ちを推測する思いやりの心を実践する方法とする」
矢羽野隆男氏の説明によれば、「『絜矩』の『絜』は、ひもをものさしにして長さを測るという意味。『矩』は直角を測る曲尺(かねじゃく)を指し、方正にする(きちんと正す)という意味で、訓読すれば『絜(はか)り矩(ただ)す』となります」と。
この「絜矩の道」はどうやら「忠恕」と同じ意味であり、『中庸』第13章でいう「忠恕は道を違ること遠からず。諸を己に施して願わざれば、亦人に施すこと勿れ」に通じます。自分の気持ちを基準にして、相手を思いやること、というふうに理解しています。
但し、『大学』の文脈では「上」や「君子」のあり方として説かれているようで、先述した「忠恕」の定義と同様ように、絜矩の道の内容を具体的に述べたところは「勿れ」の連発です。正直に、キリスト教でいう「己を愛するがごとく、汝の隣人を愛せよ」という積極的な教えと比べると消極的な印象を受けます。しかし、それは必ずしも悪いことと考えているわけではありません。キリスト教は「人を幸福にするように努めなさい」と言い、儒教は「人を不幸にしないように注意しなさい」と言います。表裏一体の考え方ではないかと思います。一方を肯定する者はもう一方を否定することは難しいでしょう。実際『論語』には「博施済衆」という言葉もあるように、儒教の愛を消極的とは言えないでしょう。
【君子の道は、辟えば遠きに行くに必ず邇きよりするが如く、辟えば高きに登るに必ず卑きよりするが如し】
この言葉は『中庸』の第15章にあり、大変有名です。例えば数学では、足し算を理解せずに連立方程式を解くことはできません。但し、漢字検定の学習は数学とは大きく異なります。何が「遠き」で何が「邇き」、何が「高き」で何が「卑き」なのか、明確な答えはないかもしれません。「効率」を考えなければなりません。
私は漢検準一級は一発合格しましたが、1級は17回も挑戦しました。こんなに時間がかかったのは、『中庸』第20章にあるような「困知勉行」という稟性上の問題だけでなく、学習法も間違えていたからではないかと思います。非効率だったと思います。漢検1級の学習を始めた頃に戻れたなら、どのような学習法を取れば良かったのか、思うことがあります。詳しく話すと長くなってしまいますが、結論としては、最初から古典を体系的に学習すべきだったと思います。
もう一つ分かるようになったのは、読めない漢字を書くことは難しいということです。「石井式漢字教育」の柱でもある「読み先習の法則」を漢検1級の学習にも応用した方が良いのではないかと考えるようになりました。持久戦なので、初学者は、書き問題の点数をあまり気にせず、読める漢字を増やし、語彙(特に四字熟語と故事成語・諺)を豊かにすることに集中した方が効率的かもしれません。書き問題の猛訓練は知識を合格レベルまで持ってきてからで良かったではないかと反省しています。
【子曰く、「射は君子に似たる有り。諸を正鵠に失すれば、諸を其の身に反求す」】
『中庸』第13章にあります。君子のあり方を孔子は六芸の一つである「射」、つまり弓道に例えています。競争相手との戦いよりも、自分自身との戦いという要素が強いです。目標を達成できなかった時は、まず自分の練習不足を反省すべきです。資格試験は同様です。努力すれば、必ず報われるはずです。特殊な試験も、捻りすぎた問題もあると思いますが、作問者を責めるべきではありません。また、「上位何割合格」という試験もありますが、他の受験者を意識し過ぎていると自分の成長の妨げになります。
類似の言葉ですが、『大学』伝の第9章には「君子は諸を己に有して、而る后に諸を人に求む」とあります。人生とはチームスポーツのようなものですが、人に期待しすぎると、必ず期待は裏切られます。百発百中の人はいません。
あるいは、友達との約束を何度破ってきたことでしょう。約束を破るときは必ず言い訳を用意してしまいます。しかし、友達が約束を破ったら怒ってしまいます。友達の言い訳を受け入れてあげないのはなぜでしょうか。自分が完璧に守れない約束を、どうして相手に完璧に守ることを求めてしまうのでしょうか。
以上、漢検1級の受験者の役に立てれば幸いです。『大学』と『中庸』は本当に短い書物なので、まだ読んだことがないという方は、是非一度読んでみてください。今後の学習では必ずためになると思います。