性別について思うこと
正しさなんてものが人間の頭の中にあるはずがなくて、もしあるとすればそれは自分の中での正しさでしかないと思う。それを他人に押し付けるのはよくない。
いつしか自分の性別とか性的指向とかそういう心の問題?なんてなんでもいいかと思うようになった。少し前までは興味本位でLGBTのことを色々調べては共感したりしていた。例えば私はXジェンダーなんじゃないかとか、ノンバイナリー、アセクシャル、クワロマンティックなんじゃないかと思った。
そういう名前があるだけで多少救われていた面もあるし、マイノリティ側でも何かに属せているという安心感があった。
そういう名前が社会に広がりはじめているのは良いことだと思う。でもそれはわりとネットの中だけというか周りだけで、一歩外に出てみたら、相変わらず存在しないものとして扱われているような気もする。それでも少しずつ変わろうとしているんだろうという匂いは感じる。
社会はどう変わっていくべきなんだろう。例えば私はノンバイナリーです。と言ったときに「へぇそうなんだ」となること?現状だと変に言葉が広まったせいではれ物のような扱いを受ける気はする。
言葉が広がること自体は良いことだけど、本質はやっぱりそこじゃない。でもなんかこう最近の雰囲気は全人類の思想を変えていこうみたいな、そういう傲慢さのようなものを感じる。
別に、性別は男と女でしょみたいな考え方だってあると思う。
私は自分の性別はどうでもいいと言っておきながら、男として扱われたらモヤっとすることが多い。性別を書く欄に男と丸を付けるときはいつもうーんと思うし、それでもその他と入れるのも違うと感じる。
男なんだからと言われるたびに「は?」って思ってきたし、自分が男だということが嫌だと思うことがときどきある。
そして他人の性別は気になる。本を読んだりするときに、作者は男なんだろうか、女なのだろうかとよく考えるし、ネット上での付き合いでも性別が気になる。言いたくないという意見もよく見るし、あえて隠すみたいな意見も理解できる。
でもそういうのを含めて性別なんじゃないかって私は思う。例えば私が女性として生まれていたら、全くの別人になっていたと思う。そのくらい男女では生きていく環境が違う。だからそういうのもひっくるめて性別なんだと思う。
だからそこを公表しないのはなんでなんだろうとよく思うのだけど、私の場合は作者と作品をセットで考える節があるし、そこがアイデンティティでもあるからなんだろうな。
話が脱線した。何の話だっけ。
一概にマジョリティ性みたいなものを悪とするのはどうなんだろうと思う。ルッキズムがあってもいいと思うし、家父長制だって悪くないと思う。よくないのは決めつけることと、押しつけることであって、いろんな考えの人がいたっていい。
すべての人が生きやすい社会になればいいと思う。文字通りすべての人が。
話が少し戻るけど、自分の性別とかがどうでもいいのは、社会に対してそれを表明していく意味がわからないから。あとグレーゾーンが多いし、境界線があいまいで訳がわからなくなりそうだから。
社会は私の生物学的な性別が知りたいわけで、心の性別なんて基本的にはどうでもいいはず。私の心の性別を知りたいのは目の前にいる人であって、それならがんばって言葉を尽くして説明すればいいんじゃないのかなと思う。もしそうしたいのならだけど。
だからある程度は言語化できるべきなのかなと思いつつ、まああなたが決めてください、嫌だったら嫌だと言うようにしますので、とも思う。やっぱり他人が作ったわかりやすい言葉じゃなくて、自分の言葉で言った方がそういう大切な部分に関しては良いと思う。
マシュマロ
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