傷ついている人を見たがらない人々について
1.「誰も傷つけない笑い」は傷ついている人への関心を高めたのか
「誰も傷つけない笑い」なる言葉が流行って久しい。これまでの笑いは人の身体的特徴をあげつらったり、罰ゲームで敗者を叩いたり蹴ったり、芸人に体を張らせて遮二無二映える絵面を撮影することで得られるもの、つまり誰かを犠牲にして生み出されるものに過ぎなかった――そんな反省から来るムーブメントのようだ。
こうした概念が広がりだしたのは2019年のM-1グランプリにて、敗者復活戦から勝ち上がってきたコンビ「ぺこぱ」が予想外の大活躍をしだしたころだったと筆者は記憶している。ボケに対して従来のようにツッコまずにあえて肯定して笑いをとる彼らのスタイルは確かに新しく、後々筆者も別の番組でネタを見て思わず笑ってしまった。とはいえ、彼ら自身は別に誰かを傷つけることへの反省からそういうスタイルにいきついたわけではないだろう。あくまで従来の笑いのスタイルを前提にしたうえで、それを裏切るようなネタにすれば面白くなるんじゃないか、とくらいにしか考えていなかったはずだ。実際、コンビの片方である松陰寺太勇はニュース番組に出演した際に、以下のように自身が台頭した時のことを振りかえっている。
“誰も傷つけない笑い”でブレイクした、お笑いコンビ・ぺこぱの松陰寺太勇は「世の中の風潮は、ネタには関係なかった。『お笑いだったら、この後はこんな流れになるだろう』という想像を裏切りたかった。その一心でやっていて、特にメッセージはないんです」と明かした上で、「『ぺこぱは傷つけないお笑い』で有名になったので、最近のライブではそれを裏切って、傷つけてます(笑)」と話した。
つまり、ぺこぱは主流のお笑いのスタイルの部分(ボケたらツッコむ)だけをメタ的な観点にもとづいて逆転したからウケたのだ。筆者はこういう風にぺこぱの笑いを理解していたからこそ、彼らがM-1で一世を風靡した後から徐々に「誰も傷つけない笑い」なる概念が世間に膾炙していく様子を不思議な気分で見ていた。本人たちが狙っていないのにも関わらず、なぜそのように解釈する人々が多くいたのだろうか?
もちろん、世間で起こるブームが先駆者の思わぬ形で広がるのは珍しい話ではない。そういった誤解から豊かな文化が生まれることもしばしばなのだから目くじらを立てるほどでもないと言われれば、たしかにそうである。本人不在で広がるムーブメントは理論的支柱がないのでどうしても足腰が弱くなりやすく寿命も短い、という懸念もないではないが、一方で、こういった流れが芸能界に広がることでいじめがなくなったり、これまで不遇に置かれていた芸人たちが楽に活動できるならそれに越したことはないだろう、なんて楽観的な見方もできなくはない。
第一、筆者はお笑いにさして興味がない。「人を傷つけない笑い」がウケるとして、じゃあどのように笑いを作っていくか、といった議論にも関心がない。「人を傷つけない笑い」は確かに良いが、だからといって従来の「誰かを傷つける笑い」を無碍にしていいのか、とか、それを封じられた芸人たちの苦悩とかいった議論もどうでもいい話だ。そんなことより、世の中にはほかに考えるべき問題が山ほどある――結局そこにいたりついたので、それ以上は深く取り合わずに過ごしてきた。
だが、最近はこうしたムーブメントにあらためて違和感を覚えるようになってきている。「誰も傷つけない笑い」を模索する芸人たちを否定するわけではない。それを称揚する人々の方にこそ、違和感を覚えているのだ。そもそもこういったムーブメントは、それを好む視聴者がいないと始まらない。一応、「誰も傷つけない笑い」が好きな人々はお笑いをわかっていないだとか、そういった話をしたいわけではない。何を見るかは視聴者の自由なのだから、銘々が勝手に好きなものを見ていればそれでいいと思う。
そうではなく筆者が提起したいのは、こんなにも「誰も傷つけない笑い」が好きな人が増えてきているのに、一方で現実に存在する傷ついている人々に関心を寄せる人は増えていないのではないか、ということだ。
筆者がこのように思い始めたきっかけは、琉球大学准教授の山本章子がTwitterで以下のようなツイートを投稿したのを見た時だった。
前編で米兵の飲酒・娯楽事情を書いたら1000いいねくらいついたけど、後編で米兵の犯罪事情とくに性犯罪を書いたら100台に⤵︎みんな悲惨な話は知りたくないんだなあと。気持ちは分かる。でもね沖縄に住む女子はその悲惨な現実と隣り合わせで生活してるの。普段意識しないけど。https://t.co/62139zztFh
— AY (@Ryudai_Jinsha) July 5, 2024
当の告知ツイートを見てみると、たしかに後編の「いいね」数は全編に比して3倍以上の差がつけられている。
書きました。情報共有よりも大事な議論が抜けていませんか!次の被害者を出さないために、米兵犯罪の構造を徹底分析します。
— AY (@Ryudai_Jinsha) July 3, 2024
沖縄で米兵の犯罪がかくも続く根本的な理由 沖縄県に連絡しなかった以外の深い問題(前編) | 沖縄から見た社会のリアル | 東洋経済オンライン https://t.co/Cb3e3sM4ub
後編では在沖米軍事件・事故の約1割が凶悪犯罪、その1/4が強姦の背景を分析。基地外居住者の事件・事故が野放しの現状も指摘しました。早急に対策を。
— AY (@Ryudai_Jinsha) July 4, 2024
沖縄で米兵の犯罪が続く根本的理由と深刻な実態 沖縄県に連絡しなかった以外の深い問題(後編) | 東洋経済オンライン https://t.co/62139zztFh
一応、リンク先の記事が深刻な内容を含むものだった場合、「いいね」とリアクションをするのはためらわれるからこそ数字が伸びなかった、との見方もできなくはない。ただ、前編のリツイート数が400近くあるのに対して、後編のリツイート数が100をやっと超える程度なのを見ると、(こういった前後編に分かれるタイプの記事の閲覧数が前編に偏りがち、という傾向は否めないにせよ)やはり山本のいうとおり単に深刻な内容の記事はみんな読みたがらない、と見たほうが妥当だろう。
山本の記事では、単に沖縄で米兵による犯罪が横行しているデータを確認するだけでなく、なぜそのような事態が引き起こされるのかも分析されている。彼女曰く、米軍には「犯罪歴や精神疾患を持つ者」が入隊しやすいという。
イラク・シリアで対テロ作戦を展開していた時期には、志願制のアメリカで新兵確保に苦労する陸軍と海兵隊が、加重暴行や窃盗、レイプ、薬物保持・使用、「テロの脅迫」などの犯罪歴のある人物を免責して入隊を認めていた。2007会計年度だけでも、合わせて861人の元犯罪者が陸軍と海兵隊に入隊している。
また、2014年にアメリカ陸軍とアメリカ国立精神衛生研究所が発表した調査結果によると、入隊したばかりの米兵の25%に注意欠陥多動性障害(ADHD)や、突然怒りを爆発させる間欠性爆発性障害などの精神疾患の症状があったという。
ごくごく簡単に言えば、こういった犯罪歴や精神的に何らかの問題を持った人間が軍隊に入った後沖縄にやってきて性犯罪に及ぶケースが多い、ということだ。山本は2016年にうるま市で起きた強姦殺人の犯人について詳しく紹介している。
2016年には沖縄で米軍属1人が散歩中の20歳の女性を性的暴行目的で襲い、殺害した事件があったが、加害者は子供の頃からADHDと「向社会的、非攻撃的な素行障害」の治療を受けていた。素行障害は、「人や動物に対する攻撃」「所有物の破壊」「虚偽や窃盗」などの行動を繰り返し行い続ける。
加害者は高校時代から、「女性を誘拐して監禁し、強姦する」妄想にふけっていた。そして、2007年に海兵隊に志願する際、集団面接で志望動機を「人が殺せるからだ」と答えて採用されている。
またこの加害者は「棒で殴って意識を失わせ、スーツケースに入れてホテルに運び、強姦するつもりだった」と米軍準機関紙『星条旗新聞(Stars and Stripes)』に語っている。棒は米軍で使われている特殊なもので、死なない程度に意識を失うと教わっていた。
しかし、実際には棒で殴られた被害者に意識があったので、加害者は被害者の脚をナイフで刺す。そうすれば逃げられなくなると海兵隊員時代に習ったのだ。だが、被害者が声を上げようとしたので首を絞めて意識を失わせ、さらに遺棄時に首をナイフで何度も刺して殺害した。軍隊の訓練で得た知識が犯行に利用された。
いうまでもない話だが、こういった記述は慎重に取り扱わなければいけない。精神疾患がある人間を大量に入隊させているから米兵による犯罪が後を絶たないのだ、と単純に言ってしまうと、同じく精神疾患を持っている人々への偏見にもつながりかねない(山本も、あくまでもそういったアメリカ人をろくにケアすることなく頭数を合わせるだけのために入隊させてしまう米軍や、彼らの方針を交渉で是正しきれない日本政府を批判する目的でこの記事を書いているつもりだろう)。
そういった注意も必要なのは確かなのだが、そもそもこういった分析がなぜ行われるかと言えば、こうした兵士たちに日々脅かされている沖縄の人々がいるからこそだという事実は忘れてはいけない。もしかしたら犯罪を起こしてしまう米兵も傷ついているのかもしれないが、そんな同情もかき消えてしまうくらいに彼らに実害を負わされる沖縄の人々の傷の方が圧倒的に深い。
しかも、このような事態は昨日今日始まった話ではない。沖縄がアメリカによって占領されて以来、1972年の日本返還を挟みつつもずっと続いている話なのである(なんなら、琉球処分以来にさかのぼってもいい話かもしれないが)。現実に傷ついている人が80年近く沖縄では生まれ続けているのに、本土日本人にその事実に関心を寄せ、現状を変えようとする人はいたって少ないのだ。
2.「コロンブス」と「植民地」的な日本
もちろん、一人の大学教授のツイートがどれだけの人に「いいね」されたかだけでは人々の関心の度合いはわからない、と言いたくなる人もいるだろう。だが一方で、最近世間で大きな注目を浴びたあるニュースと、(山本が記事を書くきっかけとなった)米兵の性加害が日本各地で公表されてない事実が明らかになったニュースとの世間の関心の格差を踏まえると、やはり現実に存在する傷ついている人々への関心は薄いのではないか、と思わざるをえないのである。
今年の6月12日に、Mrs. GREEN APPLEが「コロンブス」なる曲のミュージックビデオを公開したところ、様々な批判が浴びせられた末に翌日に公開停止にまで至った。
筆者はこのMVを一度も見ていないので、内容がどんなものであったか知らない。とりあえず諸々のニュースを仄聞するかぎりでは、バンドのメンバーがクリストファー・コロンブスやルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのコスプレをしたうえで、類人猿に乗馬や音楽を教えたりする構成だったようだ。
コロンブスは周知のとおりアメリカ大陸を「発見」した後、そこで行き会った先住民との軋轢が生まれた結果、彼らを虐殺した。しかもコロンブス以降アメリカに入植した人々は、野蛮人に「文明」を授けるとの名目のもと、諸々の侵略行為を正当化していた。そうした歴史を踏まえるのであれば、コロンブスに扮した人間が類人猿に「文化」を教える様子を牧歌的に描くのは、たしかに問題というほかない(ちなみにナポレオン・ボナパルトに扮していたメンバーもいたようだが、これについてもフランスの植民地だったサン=ドマングで独立のための反乱が起きた際、フランス皇帝となっていた彼がそれを封じるために遠征軍を差し向けた事実を考慮すれば、無数の問題があるMVである)。
だが一方で、公開した翌日に問題を自覚した結果動画を削除したからには、それ以上追及すべき問題でもないように思える。あえて言うのであれば、バカなバンドが得々と自信作を提出したところ、痛烈な批評に見舞われた末に自らの無知を思い知らされた、というだけの話ではないだろうか? にもかかわらず、人気のあるバンドのスキャンダルに乗ずればPVが取れるのだろうか、しばらくネットに批判記事が載る日々が続いた。
筆者はこのバンドを名前くらいしか知らない。曲も有線などでちょっと聴いたことはあるが、ろくに知らない。たしかAmazonのサブスクのCMに出演していたバンドではなかったか、くらいの認識はある。サム・スミスだのミッシェル・ガン・エレファントだのジャミロ・クワイだの、本当に彼らから影響を受けてそんなスタイルにたどりついたのだろうか、と鼻白まされる軽薄なCMだった。
なので別にこのバンドを擁護しようとも思わないのだが、一方で自分たちでもダメだと気づいた末に謝罪し、MVを公開停止にし、さらにテレビなどでも曲そのものを演奏するのを差し控えているのならば、もう終わった話と見なしてもいいのではないだろうか? 第一、他に考えるべき問題はたくさんあるだろうに――そんな風に思っていたのだが、彼らに対する批判はしばらく続いた。
まあ、過去に朝鮮や台湾などを植民地とし、一方でアメリカに占領された経験のある日本に生まれた人ならば、植民地主義の歴史に敏感になるのも当然なのかもしれない(そういった視点で書かれた批判記事は斎藤美奈子が6月19日付の東京新聞に寄せたコラム以外にはあまり見受けられず、これから世界に打って出ていくアーティストがここまで鈍感なようでは先が思いやられる、といった商業的な観点からの批判が大半だったが)、といった具合に受け止めていたのだが、そうしたところ、昨年12月24日に嘉手納基地所属の空軍兵が沖縄の16歳未満の少女を自宅に連れ込み性的暴行に及んだ、とのニュースが報じられた。
去年の事件がなぜ今になって、との疑問が真っ先に思い浮かんでくるが、どうやら、被疑者は今年3月に起訴されていたにもかかわらず、県警が「被害者保護の観点から」との名目で公表を控えていたために、半年を過ぎた6月25日になってようやく明らかになったらしい。さらに、3月の時点で外務省はこの情報を得て駐日大使に抗議したが、一方で県側には伝達しなかったという。
周知のとおり、沖縄では6月16日に県議会議員選挙の投開票が行われていた。結果これまで与党だったオール沖縄勢力が過半数を割り込み、片や自民党を含む野党は議席を伸ばした。その9日後に事件が露見したとあって、なんらかの政治的配慮の末に公表されなかったのではないか、との憶測も流れた。
果たして事件がより早く公表されたとして、選挙に影響があったのかどうかはわからないが、いずれにせよ県側にすら伝達されなかったのは望ましくないことに違いはない。
その後、堰を切ったようにこれまで隠蔽されていた米兵による性加害が明るみに出た。同月28日には5月に海兵隊員による性的暴行事件が起き、6月17日付で起訴していたが、地検はメディアに公表していなかったことが判明した。
同月30日には、沖縄タイムスが1995年以降に起きた米兵による性的暴行30件のうち、少なくとも15件が公表されていない可能性を指摘した。
あまつさえ、7月に入ってからは米軍基地が立地する神奈川、山口、青森、長崎などにおいても米兵による性犯罪事件が県に報告されていなかったと暴露された。
こういったニュースを見ると、日本はアメリカの占領地なのだろうか、との疑念を禁じ得ない。たしかに日本は形式上はアメリカに占領されてはいない。だが、植民地主義や他国占領の歴史をひもとくと頻繁にこの手の事例を見かけるのも事実だ。宗主国から植民地(占領地)へと派遣された人間が現地の民衆に暴行を働いたとしても、現地政府は波風を立てるのを防ぐためにメディアなどに向けて事実を報じないよう要請する、というのはザラに起こっている。
一例として、我が国で1945年8月から6年8カ月にわたって続いた占領期間においては、アメリカ人による犯罪が頻繁に起こっており、そのほとんどは公表されずじまいだったという。
全調達〔全国調達庁職員労働組合〕の調べでは、被害の理由になる事故・事件は「危険運転」が圧倒的に多く、「暴行・傷害・殺人」「労働災害」が続く。軍用車両で人混みに突っ込んだり、民家に飛び込んだりしている。「面白半分に殺傷したと疑われるケースが多い」というのだ。殺人事件にしても、20歳のアメリカ軍一等兵が通行中の日本人男性2人を刃物で突然刺して殺害(奈良)。「日本において初めての米兵に対する死刑判決」と騒がれたが、アメリカ国内で助命嘆願が起こり、帰国後、短期間で釈放されている。
占領政策のこうした暗部はアメリカ軍に隠蔽(いんぺい)されただけでなく、日本政府もそれに手を貸す形になった。被害者は、ときに見舞金程度の補償を受けることがあるにせよ、泣き寝入り、あるいは講和条約発効後に賠償金の請求ができるから、との国側の説得に黙する以外になかったのだ。しかしサンフランシスコ講和条約では、日本はこの種の賠償請求権は放棄している。
戦後社会では、被害者の会も作られて司法の場に持ちだされているが、一部の被害を除いて旧軍と政府の側に立つ司法判断が示されてきた。
となれば、6月から続いた一連のメディアによる米兵が犯した性加害の暴露は、植民地主義や帝国主義は歴史上の出来事ではなく、現在もなおくすぶり続けているとの告発だったとも解釈できるだろう。
では、こうした告発を受けて社会はどう動いただろうか? ……筆者の見るところ、何にも変わっていないように思える。一応、抗議活動がなかったわけではない。たとえば、昨年12月に起きた性加害の被疑者である空軍兵が所属していた嘉手納基地前では、およそ100人の県民がデモを開催した。
7月2日には外務省前で350人が集まったデモも行われた。
他にもデモは催されているが、一方で「これだけ?」とあまりの小規模ぶりに脱力感を禁じ得ないのも確かだ。もちろん、それぞれのデモに参加している人々は尊敬に値する。私はあくまでもこういった抗議に参加していない人を問題にしている。
ついこの間植民地主義を肯定するような表現をしたミュージックビデオに大きな批判が寄せられたことを思い合せれば、こういった実際に生きのこっている植民地的な事象に対する沈黙ぶりにはいっそ拍子抜けするほどだ。あけすけに、「お前らたった3人のバンドをよってたかってミソクソに叩いたくせに、アメリカ相手となると途端に黙るのか」とさえ毒づきたくなる。
いや、落ち着いて考えれば、この二つの事例は比較対象にはなりえないものだ。なぜなら、片方には実際に被害に遭った人がいないのに対し、もう一方は実害を被った人がたしかに存在するのだから。
たしかに、例のミュージックビデオをネイティヴアメリカンが見れば気分を害する可能性は否めない。とはいえ、いかにほぼ世界中の人々が閲覧できるYouTubeで公開されていたとはいえ、日本市場ありきで成り立っているバンドのプロモーションビデオを、どれだけの日本語のわからない人が見るのだろうか(第一、見ただけで精神に異常をきたすMVなんて存在するのだろうか)。なにより、件のミュージックビデオに抗議した人の大半が日本人だったことを踏まえるのであれば、騒いでいた人々は実害を被ったはずはないのだ。単にあのビデオを見て不快になったり、ニュースを見て不快になっただけで、彼らはあれだけ沸き返っていたのである。
それに対して沖縄を始めとした米軍基地が置かれている場所で起きた性犯罪およびその隠蔽には、明確に被害者がいる。中には不起訴になった事例もあるのですべてが事実と言いきれるわけではないにせよ、起訴に至って裁判まで行われている事例もあるのだから、被害者に同情しながら抗議をすることは十分に可能なはずだ。実害を被った人間が現れないうちに騒いでいた事例を踏まえれば、実害を被った人間がいると確実にわかっているこの事例についてはもっと騒げるはずなのである。にもかかわらず、今日に至るまでなんの騒動も起きていない。この不均衡をどう考えるべきなのか?
筆者はこう考えたくなる。要はみんな、誰かが傷ついている事実に関心を寄せるのが嫌なだけなのではないか?
「誰かを傷つける表現」を嫌う人々の実情は、以下のようなものなのではないだろうか?
「誰かを傷つけるかもしれない笑い」や「誰かを傷つけるかもしれないミュージックビデオ」は、実際に傷つく人が現れないうちに抗議して封じこめる。そうしないと実際に傷ついている人が現れた時が大変だ。彼らの傷ついている様子を見ることで自分まで重苦しい気分になるかもしれないから、そんな面倒を背負うくらいならば初めからそうした表現をなくしたほうがいい。
そして、実際に現在進行形で傷ついている人にも目線を向けないようにする。なぜなら、彼らの傷ついている様子を見ることで自分まで重苦しい気分になってしまうから……結局のところ彼らは、そんな理屈でしか動いていないのではないだろうか?
だとしたら、筆者は勘違いをしていたと認めなければならない。筆者はてっきり、「誰も傷つけない笑い」なる概念がこんなにも世間に広がっているのは、これまで主流になっていた笑いの犠牲になって傷ついてきた人たちへの同情心が芽生えているからこそだと思いこんでいた。だが、実際にはそうではなく世間の人々は、「誰かを傷つける表現」をなくすことで傷つく人を減らしたい、なんて思っているわけではないのかもしれない。そういった表現で傷つく人が出てくる可能性を恐れているだけなのかもしれない。何かのきっかけで傷ついた人が現れた時にどう対処したらいいかわからないからこそ、未然に防ぐ方向で動いているだけなのかもしれない。
だからこそ彼らは実際に傷ついている人がいると知らされても、ろくにアクションを起こさないのではないだろうか? 「誰も傷つけない笑い」が好きな人がこんなにも増えているのに、一方で現実に存在している傷ついている人に対する関心が広がらないのは、こういった事情があるからこそなのではないだろうか?
3.ジャニー喜多川に抗議する人々はなぜあんなにも多かったのか?
ただ、筆者がこう言うと抗議する人々もやってくるだろう。
――自分は「誰も傷つけない笑い」が好きだし、「コロンブス」にも抗議したし、米兵の性加害にも憤っている。――それは素晴らしいことだし、筆者は別にそういった人を批評対象にしているつもりはない。
――人間はすべてのニュースに関心を向けられるわけではないのだから、片方の報道にばかり注目して、もう一方の報道に注目しない人のことをあげつらうのは酷だ。――たしかにそれはそうだ。筆者も昨年10月からずっとガザ侵攻の動向を見守っているがゆえに、「コロンブス」や米兵性加害の非公表への反応が鈍くならざるを得なかったので(前者はハッキリ言ってクソどうでもいいのだが)、そういった人間の性質については重々承知している。だが、それにしては「コロンブス」があれだけ炎上したのに、米軍は炎上しなかったのは、人間の関心の総量には限界があるという事実だけでは説明がつかないように思える。そこには明らかな不均衡が存在する。人間はみんなが騒いでいることには注目するが、みんなが騒いでいないことには注目しない生き物なのだから仕方ない、と言ってくれるのであればまだわかるが。
――たしかに、沖縄を始めとした米兵による性犯罪被害者に対して人々の反応が鈍かったのは否定できないが、だからといって世間が現実に存在する傷ついている人に対しても鈍いと結論づけるのは拙速だ。たとえば、去年ジャニー喜多川による性加害が明らかになった際には、大きなムーブメントが起きた。ムラはあるにせよ、世間の人々の被害者に対する感度は高まっているのは否定できないのではないか。――もっともな話だ。だが、去年の事例もよくよく調べてみると、世間の被害者に対する感度が高まっている証拠にはなりえないのではないか、と筆者には思えて仕方ない。
ジャニー喜多川による所属タレントなどへの性加害問題は、そもそも彼の存命中にも週刊誌や外国メディアなどで取り上げられていた。喜多川が週刊文春を相手取り民事訴訟を起こしたこともある。結果は敗訴だったが、ジャニーズ事務所のタレントに頼りきっているテレビなどのメディアはそれを大々的に取りあげなかった。
事態が動き始めたのは2023年の話で、まずはBBCが3月にドキュメンタリーを放送した。
BBCは2019年に喜多川が亡くなった際にも、性的虐待の問題を取り上げつつ、彼を批判することが日本においてタブーになっていると指摘していた。
BBCのドキュメンタリーはよくも悪くもタブーのないネットを中心にそれなりに関心を持たれたはものの、当然ながら主流のメディアではろくに報道されなかったため、大半の一般人の興味を引きつけるには至らなかった。BBCの動きを受けて週刊文春ものちに会見を開くこととなるカウアン・オカモトの証言を掲載したり、過去の記事を掲載したりするなどして援護したが、スキャンダルを報じて世論を動かすことにかけては一流の週刊誌でさえ、ジャニーズ事務所の前には無力と言わざるを得なかった。
そんな中で決定的に流れが変わったのは、4月12日に元ジャニーズJr.のカウアン・オカモトが外国特派員協会で会見を開いた時だった。
オカモトは日本のメディアはきっとこの事実を報じてくれないだろうと見越したうえで、外国メディアに向けて証言するつもりだったが、さすがに日本で行われる会見を無視するわけにもいかなかったのか、協会にはNHKや共同通信を始めとする主流メディアの姿も見られた。
オカモトの会見はテレビや新聞などで散発的に取り上げられるだけだったが、一方でこの期に及んでも喜多川の疑惑を大々的に取り上げないマスコミに対する世間の不満感を呼び起こした。徐々にプレッシャーが高まっていき、時間が経つにつれて対応を迫られたジャニーズ事務所は、形式的な謝罪をしつつも、一方で喜多川の性加害の事実は認めず、あまつさえ「知らなかった」とした。
こうした拙い対処が世間の火をつけたのは周知のとおりである。オカモト以外の性被害者が実名で証言したり、性被害者たちが共同で当事者の会を立ち上げたり、国連人権理事会が調査を開始したり、外部委員会が社長の辞任を要求したり……そういったことが積み重なった結果、ジャニーズ事務所は廃業し、新会社を設立するにまで至った。
たしかにこういった一連の流れを振りかえると、これまで隠蔽されていたジャニー喜多川の性暴力の責任を追及するために、世間が強い関心を持ったのは疑いえない。
だが一方で、筆者はそうした関心がオカモトによる会見に至るまで呼び起こされなかったことも指摘しておきたい。言いかえれば大半の人々は、被害者が名前も隠さず肉声でもって自分は被害に遭った、と述べるまでさして興味を持たなかったのだ(これはBBCのドキュメンタリーがネットで反響を呼んだことにもあてはまる。番組では、性被害者が平本淳也を除いて仮名であったとはいえモザイクなしでインタビューに応じている)。ジャニー喜多川の問題が取りあげられる以前から、世間の人々はそのようなリスクを冒して証言する者にはどういう風に応答するにせよ、少なからず関心を持ってきた。たとえば2023年以前から元ジャニーズが喜多川の性加害を告発する本は散発的に出版されており、いずれも一定の注目を集めてきた。勇気のある証言者に対する感度は昔から高かったのだ。
なにより、そういった証言者の姿を見ている分には我々はあまり嫌な気持ちにはならない。むしろ忌々しい過去の記憶がフラッシュバックしてくるのに苦しみながらも、どうにか声にしようとする姿を見て感動さえするだろう。実際、何らかのカミングアウトを決断する人々を我々はこれまでも大なり小なり受け入れてきた。傷ついた状況からある程度立ち直った人相手なら我々は寛容なのだ(もちろん、どういうわけか証言者に向けて誹謗中傷をぶつける連中もいるにはいるが)。その意味では、別に世間の人々の意識が変わったからジャニー喜多川が糾弾された、とは必ずしも言い切れないのではないだろうか。
筆者が何を重要視しているかを直截示すために、ここであえてこう問うてみよう。もし仮に被害者がドキュメンタリーのインタビューに応じなかったり、会見を開かなかったりしたら、世間の関心はここまで高まっただろうか? そもそもこれまで喜多川が糾弾されなかったのは、世間の人々の関心が姿の見えない被害者に向かなかったからこそではないだろうか? もっと露骨に言えば、世間の人々があれだけ喜多川のことは批判したのに、米軍の性加害についてはほとんど興味も示さないのは、被害に遭った女性たちが姿を現さないからなのではないだろうか? 結局のところ、そうした姿を見せない被害者に対する我々の感度は未だに低いままなのではないだろうか?(念のために言えば、だから女性たちは勇気を出して証言をするべきだ、なんて話をするつもりはない。姿勢を変えるべきは彼女たちではない。そうした目に見えない被害者に関心を寄せられない我々こそが変わるべきなのだ)
被害を証言する人に関心を持つことと、被害者がいるという事実に関心を持つことの間には大きな隔たりがある。公の場に姿を現し、自分の声でメッセージを伝える者にはどうしても人は反応せざるをえない。否が応でも世間の人々は、実在感を有している相手からは、逃げようと思ってもなかなか逃げられないのだ。
それに対して、たとえば週刊誌などで匿名で証言をする者に対して人々の反応はどうしても鈍くなってしまう。一般的な人間は、目に見えないものについて想像力を働かせづらいので、どうしても姿を見せてくれない証言者が現実にいるとは考えづらい(悪しき例として、ゴシップ記事にしばしば出てくる匿名記者を思い浮かべればいい。いかに信憑性のある話をしていようと、我々はどうせこれは記事の作者が勝手に捏造した存在だろうと思うし、実際そうであることはザラだ)。ましてや、その証言者が傷ついている人ならばなおさらイメージすることは困難になる。傷ついている人はどんな姿をしているだろうと想像しているうちに、重苦しい気分になってしまう可能性がある以上は、普通の人はそんな辛気臭い作業を嫌がるだろう。だからこそ人は証言者には関心は持てても、証言できなかった被害者にはなかなか関心は持てない。
こうした傾向が未だに改善できていないからこそ、我々は喜多川に非難を向けられた一方で、米兵には反応が鈍くなった、というのが事の真相なのではないだろうか。誤解を生まないように言っておくが、筆者は喜多川を非難していた人々は偽善者だなどと告発したいわけではない。むしろ善人だと思っている。その上で、喜多川を非難するだけの良心があるのならば、それをもっと早く表明することもできたろうし、現在進行形で性加害が続いている米軍にも向けることだってできるはずだろう、と言いたいだけなのだ。
4.目覚めているフリをしている人々について
現在の世間では誰かを傷つけることへの感度が高まっているように見えて、その割に現実に存在している被害者への感度は高まっていない――こうした課題は、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクの問題意識とも接続できるだろう。
彼は近年台頭しているWoke(意識高い系)をしばしば批判しているが、たとえば『コンパクト』誌に掲載された”Wokeness Is Here To Stay”は、題名からも察せられるようにジジェク流のアイロニーをWokeにぶつけているエッセイだ。
here to stayを慣用表現として取ると、「定着する」とか、「普及する」といった意味になる。しかしながら、文字通りに取ると「ここにとどまりつづけている」程度の意味にしかならない。言うなれば、Wokeness(意識の高い連中)はすっかり世間に定着したようにみえるが、彼らが意識を高めたところで社会は依然同じところにとどまっている(何ら変わっていない)じゃないか、とジジェクは皮肉を投げかけているのだ。
彼はWokeがもたらした現象の一例として、同じく『コンパクト』誌に載せられたヴィンセント・ロイドの体験談への参照を促している。
ロイドはジジェクも紹介する通り、「申し分のない資格」をもった人物で、「黒人教授であり、ヴィラノバ大学政治神学センター所長である彼は、大学の黒人研究プログラムの元ディレクターであり、反人種差別と変革的正義のワークショップを主催し、古典的なテキスト『黒人の尊厳:支配に対する闘争』などの、反黒人的人種主義と刑務所の廃止に関する本を出版している」。
そんな彼は2022年にテイラルド協会に乞われて、「アメリカにおける人種と法の限界」に関する6週間のセミナーを主催した。集まったのは17歳の学生12名だったのだが、彼らは並行して、Woke大学生が主催するワークショップにも参加していたので、その影響がロイドの主催するセミナーにモロに直撃する形となった。
たとえばセミナーが始まって4週間後、ロイドは生徒たちの前に座らされて、彼らから指導スタイルを糾弾されたという。
それぞれの生徒は、準備してきた声明を読み上げた――いかにセミナーがその内容と形式において反黒人暴力を永続させたか、いかに黒人生徒が被害を受けたか、いかに私〔ロイド〕がボディランゲージを通じた無数のマイクロアグレッションを用いて罪を犯したか、そして、いかに私が反黒人性を世界のすべての病の原因として扱わず、そういった見方をただちに修正さえしなかったために生徒が安心を感じられなかったか。
セミナーの内容については詳しくわからないのだが、おそらくロイドは4週間を通じて、いかに黒人が残酷な目に遭わされてきたのか、といった歴史を学生に教えようと試みたのだろう(彼の略歴や、セミナーの題名を踏まえればそう考える方が自然だ)。それを啓蒙することで差別に対する感度を高め、迫害を克服するためにはどのような手段をとればいいのか、といった方向性でセミナーを進めようとしたのだと推測できる。しかし、どういうわけかそうした授業のスタイルが、生徒たちには「反黒人暴力を永続させ」ているかのように映ったというのだ。彼らにとっては、黒人差別の歴史を聞かされることはすなわち「黒人生徒」への「被害」だというのである。
ロイド曰く、そういった生徒たちの物事の捉え方は、並行して行われたWokeなワークショップによってもたらされたものらしい。そこで彼らは、自分が正しくないと感じるものは「被害」と見なせ、なるスタイルを学んでしまったようだ。だからこそ彼らは授業のスタイルを不快に感じ、それを「被害」と呼んだ上でロイドを追放しようと企てたのだ。
セミナーではこんなことも起きたという。
投獄についての議論の中で、アジア系アメリカ人の学生は、投獄されている人の約60%は白人である、との連邦政府の受刑者の人口統計を引用した。黒人学生らは被害を受けたと述べた。彼らはワークショップの一つで、客観的事実が白人至上主義の道具であることを学んでいた。セミナーの外では、黒人学生たちは、黒人に関するものではない刑務所の統計を聞くことで自分たちに与えられた被害を正すために多大な時間を費やさなければならなかったと聞いた。数日後、このアジア系アメリカ人の学生はプログラムから追放された。同様に、アメリカ先住民に加えられた恐ろしい暴力、死、没収に焦点を当てた一週間後、〔ワークショップを開催していた大学生の〕ケイシャは私に、セミナーが反黒人差別に十分に焦点を当てていなかったため、黒人学生とその同盟者たちが被害を受けたと報告した。シラバスに示したとおり、間もなく黒人撲滅に焦点を当てた4週間が始まると私が説明しようとしても、彼女は被害は差し迫ったものだと言った。すぐに対処しなければならない、と言うのだ。
呆れるほかない話だが、何より筆者は、こんなせせこましい小競り合いをやったところで本当に黒人差別がなくなるのか、と疑問に思えてならない。「客観的事実が白人至上主義の道具」ならば、たとえば黒人の証言者によるオーラルヒストリーを軸にしたセミナーを行えばいいのだろうか? アメリカ先住民に関する歴史なんて取りあげないで、6週間すべてを黒人差別に関する歴史に費やせばいいのだろうか? そうすることで黒人差別がはびこる社会が変わるのだろうか? ……筆者にはとうていそうは思えない。いや、それどころか筆者には、連中が現状を変える意識すら持っていないように思えてしかたない。
Wokeや彼らに影響された学生が、そうした変更を施すことで社会が変わると思っているのならまだ救いようがある。しかし、彼らはあくまでも黒人差別ではなく、自分たちの気分を害するような物事を消す方向へと活動を進めているように思えてならない。彼らにとって重要なのは、現実に起こっている差別を減らすことではなく、彼ら自身が気分よく暮らせるようになることなのではないだろうか……それが社会をより悪い方向に導きかねないとも知らず。
ジジェクは彼らのふるまいについて以下のように述べている。
この新しいカルトは、客体化された教義への信念と、自分の感じ方への全幅の信頼を組み合わせている(ただし、自分の感情を人種差別主義者の罪悪感の尺度として参照する権利を持っているのは抑圧された黒人だけだ)。〔ロイドのセミナーにおいて〕批判的な議論の対立は何の役割も果たしていないが、これは「公開討論」が人種差別的で白人至上主義的な概念であることを意味している。 「客観的事実は白人至上主義の道具である」――そうだ、トランピストがよく言っていたように、私たちはオルタナティブ・ファクトを生み出す必要があるのだ……。
何ならこうしたWokeは、世間の情勢に無関心でいる一般的な人々よりもタチが悪い。現状何も行動を起こしていない人々は、社会問題にすでに関心を持っている人に比べてエネルギーを使っていない。ということは、彼らのエネルギーを社会問題の解決に使う方へと差し向けられる可能性はまだ残っている。もちろん、そのエネルギーが正しく使われるとは限らないが、いずれにせよ希望は残っている。
一方で、Wokeはエネルギーを間違った方向にすでに使い果たしてしまっている。加えて、彼らは自分が何らかの問題に取り組んでいると満足しきっているから、そのエネルギーの方向を変える必要を自覚していない。文字通りの意味で彼らは「here to stay」な現状に事足りているのである。仮に彼らにそのエネルギーの使い方は間違えている、と指摘しようものなら、お前は差別主義者だ、なんて言われかねない。結果、我々は余計な議論に時間を使わされる羽目に陥らざるをえない(いや、議論してもらえるならまだマシだ。Wokeは反論する者を追放して議論を拒むのだから)。そして、現実に存在する被害者は取り残されたままになる。
我々は一見、社会問題に自覚的な世の中に住んでいるように思える。しかしながら実のところそれは、わかりやすい問題や関心を寄せやすい問題に目を向けているだけの話であって、より重要な問題は閑却されたままなのではないだろうか? 我々は目覚めているフリをしているが、実は未だに眠っている夢遊病者なのではないだろうか? エッセイにてジジェクが末尾に書きつけた以下のような文言は、そのような意味で読まなければならないだろう。
目覚めた人々(Woke)は、まさに私たちが眠り続けることができるようにするために、私たちを(人種差別と性差別に)目覚めさせるのだ。彼らは、私たちが人種的および性的トラウマの本当の根源と深さを無視し続けることができるように、私たちに特定の現実を示しているのである。
注釈
(注1)ジジェクはこの一文を、彼の専門分野である精神分析を参照しながらしたためている。なので、より明確にジジェクの言わんとするところを理解するにはそういった背景も詳述しなければならないのだが、それをいちいち説明していると煩雑になるため本文では省略した。ただ、説明するのが面倒なだけで、理解するのはそこまで難しくはない話なので、注釈という形で補足したい。
ジジェクはジークムント・フロイトが紹介したことで有名になった「子供が燃える夢」を引用している。夢のあらすじはこんなものだ。
ある父親がつきっきりで看病したものの、息子を亡くしてしまう。その後息子の遺体は蝋燭に囲まれた状態で安置され、父親は一旦仮眠をとるために別の部屋に行った。部屋には老人が番人となって、ぶつぶつとお祈りの呪文を唱えていたが、念のため扉は開けておいていつでも様子を見るようにしておいた。そして父親はこんな夢を見た。彼の寝床のもとに子供がやってきて、「ねえ、お父さん、見えないの? 僕が燃えているのが?」と訴えてきたのだ。父親が目を覚ますと、番人は居眠りをしており、倒れた蝋燭が息子の服と片腕を燃やしているのに気づいた。
フロイトはこの夢について様々な形で解釈を施しつつも最終的に、我々が夢を見るのは願望を充足させるためである、との彼自身がかかげたテーゼを踏まえながら、実は父親は息子にもう一度会いたいとの願いを叶えるためにその夢を見たのではないか、と提案する。フロイトに言わせれば我々が夢を見るのは、せめて少しでも眠りを先延ばしするためである。そういった猶予を得ることで、我々は願望を充足するための時間を持てる。父親は夢に息子が燃えているとの情報を取り込めるくらいには、蝋燭が倒れている現実の状況を薄々わかっていた。ならば、夢なんか見る暇も省みずにもっと早く目覚めることもできたはずだ。にもかかわらず夢を見たのは、息子が亡くなっているという現実に向き合いたくないがために、せめて夢の中ででもいいから彼に会えないだろうか、と父親が願ったからこそではないか、とフロイトは言うのだ。
それに対してジャック・ラカンは、『夢判断』が出版された後フロイトが彼の重要なテーゼ――我々が夢を見るのは願望を充足させるためである――には例外があると悟ったのを踏まえながら、父親は別に息子に会いたいからその夢を見たのではない、とあっさりと否定する。その代わりにラカンは、むしろなぜ父親は目覚めたのかと問うべきだと注意を促した。
それまでフロイトが示してきたことから我われがここで立てる問い、それは「何が目覚めさせるのか」ということです。目覚めさせるもの、それは夢「という形での」もう一つの現実にほかなりません。「子供が彼のベッドのそばに立って、彼の手をつかみ、非難するような調子で言った――ねえ、お父さん、見えないの? 僕が燃えているのが?」
このメッセージには、この父親が隣室で起きている出来事を知った物音よりも多くの現実が含まれているのではないでしょうか。この言葉の中にその子の死の原因となった出会い損なわれた現実が込められているのではないでしょうか。死んだ息子から父親に向けて発せられ、息子から永遠に切り離されてしまったこれらの言葉を父親の中で定着させているものがなんであるのか、それをこの台詞のなかに見て取らなければいけない。そうフロイト自身が我われに言っているのではないでしょうか。
仮にフロイトの提案するように、父親が願望を充足するために息子を呼び出したのなら、わざわざ彼に「ねえ、お父さん、見えないの? 僕が燃えているのが?」なんて言わせる必要はない。そうではなく、より眠りを引き延ばすような甘い言葉を言わせ続ければいい。こう考えるだけでも願望充足説が持ちこたえられないのは簡単にわかる。
では、なぜ夢の中の息子は「ねえ、お父さん、見えないの? 僕が燃えているのが?」なんて言ったのか? ラカンは「この言葉の中にその子の死の原因となった出会い損なわれた現実が込められているのではないでしょうか」と疑問を投げかける。要するに「ねえ、お父さん、見えないの?」というセリフは、父親にとってトラウマになっている出来事と結びついているからこそ彼をショックで目覚めさせたのではないか、とラカンは言うのだ。(実はフロイトも『夢判断』の中ですでにその可能性に言及はしているのだが、夢を教えてもらった患者からはその体験を聞き出せなかったのか、深入りを避けている。ラカンは、フロイトが「出会い損」ねた患者の「出会い損」ねた言葉を再解釈する、といったマトリョーシカ人形じみた作業をここで行っている)。
このように解釈をやり直したうえで、ラカンは実のところ父親は本当に「目覚めた」とは言えないのではないか、と提案する。父親にとって本当に向き合うべきだったのはトラウマとなっている言葉(「ねえ、お父さん、見えないの?」)だった。にもかかわらず、彼はそこから避けてトラウマと向きあわないで済む「現実」へと逃げこんだだけだったのではないか、とラカンは言うのだ。
覚醒、これには二つの意味があるということ、つまり構成され表象された現実の中に再び我われを据える覚醒は重複したものであるということを見ないわけにはいきません。現実的なもの、これは夢の彼岸にこそ、つまり夢が包み込み、覆い、我々から隠しているもの、そして代わりのものしかない表象欠如の背後にこそ探すべきものです。我われの活動を他のすべてのもの以上に支配しているのは現実的なものであり、精神分析は我われにそのことを示しているのです。
我々は普通「覚醒」という言葉は、夢の世界から現実の世界へと移行する時に使う。一方でラカンは、それだけでなく夢の背後に隠れているトラウマ的なものに出会う「覚醒」もあるのではないか、と示唆する。我々は目覚めている世界こそ現実的であって、夢は非現実的なものだと考えがちだ。それに対してラカンは、夢を通じて出会えるトラウマ的なものこそ「現実的」だというべきだ、と言う。その意味で件の父親は本当の意味で覚醒したとはいえず、「ねえ、お父さん、見えないの?」という言葉に「出会い損」ねたまま、現実という名をした別の夢の中に逃げこんだだけなのではないか、とラカンは見なすのだ。
これについてジジェクはよりクリアに解説している。
つまり、不幸な父親を目覚めさせたのは外の現実からの闖入物ではなく、彼が夢の中で出会ったものの耐えがたく外傷的な性質だった。「夢をみる」というのが、 <現実界>との遭遇を回避するために幻想に耽ることだとしたら、父親は文字通り夢をみつづけるために目を覚ましたのだ。シナリオは次のようになっている――煙が彼の眠りを妨げたとき、父親は睡眠を続けるために、すぐさまその妨害要素(煙、火)を組み入れた夢を作り上げた。しかし、彼が夢の中で遭遇したのは、現実よりもずっと強い、(息子の死に対する自分の責任感という)外傷だった。そこで彼は<現実界>から逃れるために、現実へと覚醒したのである。
こうした背景を踏まえたうえで、もう一度ジジェクのエッセイの最後の文章を読み直せば、彼の言わんとしていることは一層明確に理解できるはずだ。
目覚めた人々(Woke)は、まさに私たちが眠り続けることができるようにするために、私たちを(人種差別と性差別に)目覚めさせるのだ。彼らは、私たちが人種的および性的トラウマの本当の根源と深さを無視し続けることができるように、私たちに特定の現実を示しているのである。