更新される世界。この手のひらに、握りしめていけるもの。
太陽の光で目を覚ます。窓を開け、心地よい風を感じる。冷たい水で顔を洗って、鏡を見ながら髪をとかす。朝ごはん用に炊きたての、玄米混じりのごはんを茶碗によそり、昨晩の残りの味噌汁を温めて、もう一品おかずを考える。庭からは、鶏の餌をせっつく声が聞こえてくる。
穏やかで、爽やかな朝。
でも、まったく「普通」でない日が、また今日も始まってしまったのだ。
ニュースでは連日、新型コロナの情報が流れている。外へ出れば、みんなマスクをつけて顔を隠し、人と近くですれ違うことにすら敏感になる。
先日、県の緊急事態宣言は解かれたけれど、「普通」はまだ遠い。いや、たぶんもう、これが「新しい普通」になっていくんだろう。世界は、たった三ヶ月で一変する。
この感覚は、前にも味わった。そう、3.11のとき。あのときにも、繰り返される余震や、原発事故のニュースに、世界が壊れてしまったのだと何度も感じていた。
あれから数年経ち、だんだんとその感覚を忘れてきた頃の、今日。こうやって、何度となく世界は壊れ、塗り替えされながら、何事もなかったかのような顔をして進んでいくんだろう。これからも、ずっと、ずっと。確かなものなんて、ほんの一握りしか残してくれない。
そのなかで、いったいなにが本当の豊かさなんだろう。
わたしたちは、なにを握りしめて進むことができるんだろう。なにより子どもたちの小さな手に、なにを握らせてあげられるんだろう。
豊かさの象徴と言えばもちろんお金で、でもお金だけあってもどうにもならないときがあるんだって、みんな気づきはじめてる。
いや、もちろんお金は大切だけど。なんで大切なの? そりゃだって、お金がないと食べていけないし、好きなことできないじゃない……。
そう、だから。つまり、それなりに食べていけて、プラス好きなことが自由にできさえすれば、つまりそれが本当に豊かってことなんだろう。お金は強力な手段の一つであって絶対ではない、ってことだ。まぁ、かなり強力ではあるけれどね。
逆に、たくさんのお金があっても、やりたいことが一つもなかったなら。それってなんだか、あまり豊かとは言えないのかもしれない。
やりたいこと。
よく、やりたいことを100個書き出してみよう、なんて言うけれど。そんなにたくさん、あるのかしらん。
例えば。
美味しいパンを焼きたい。もっとパン作りの勉強もしたい。野菜を育てたい。ジャガイモも育てたいし、果樹も植えたい。チーズも作りたいし、育てた果物を使ってジャムなんかも作ってみたい。待って、まずは畑を耕したい。土作りをしっかりしたい。ピザ窯を作って、自家製ピザも焼きたい。
家の中を改造したい。DIYで、キッチンやキッズスペースを使いやすく、見た目もテンションがあがるようにしたい。
それから、えぇっと。最近読めてなかった本を読みたいし、子どもと思いきり遊びたいし、一人でふらっとでかけたいし、友達ともおしゃべりしたい。
なんだ、やりたいことがなかなかそれなりにある。これって、わりと豊かであるってことじゃない? って、そう調子にのりたくなる。
で、実際ノートに書き出してみるけれど……あれ? けっこう挙げたつもりだったのに、100個埋めるにはまだまだ遠いぞ……? うーん、豊かであるって難しいなぁ……。
いやいや仲之よ、そもそも、それだけじゃダメですよ。やりたいことがあるだけじゃあ。やりたいことを、そら、実行に移さなければ。
いや、でも、リストに挙げられたからって、実際にやるとなるとやっぱり難しいし……だから、今もできてないわけだし。
あれ、でもでももしかしたら……リストをよーく見てみると、勝手に敷居を高くしていただけで、やれることもあるのかも?
例えば……いきなりピザ窯を作るのは難しいけれど、オーブンでピザを焼くことなら今でもできるし。本はとりあえず手に持ってみたら、そのまま読み出せるかも。それから、友達とおしゃべりは、ネットを使えば子どもが寝たあとにもできるんじゃない?
それに、今できないと思っていることも、数か月後にはやってみようもいう気持ちになれるかも。だってほら、世界が三ヶ月で一変するのを、わたしたちはもう身をもって知ってるんだから。
本当の豊かさが、お金をたくさんもってることでも、高価なものを持っていることでもなく。やりたいことをやれる、ってことならば。
なにより必要なのは、手が届くはずがないと思っていたところへ跳び込むための、思いきりなのかもしれない。
思いきって跳び込んだその先が、思っていたより高いか低いか、それともでこぼこかなだらかか……それは、分からないけれど。
でも確かにその先にある豊かさを、手に入れるため。ちょっと助走をつけて走り出すのは、思い立った「今」にもできるのかもしれない。