日記 10/19
いやいや、10月も下旬になろうとしているのになんでこんなに暑いの?
アタマでは「気候変動により春秋は無くなったんだよ、日本は二季になったんだよ」としているが、身体が全く受け入れてこない。
スピリチュアルな話。
ここ最近で、どうも「樹海」を抜けた、もしくは抜けかけている。
樹海とは即ち社会。
現実的な社会でもあれば、心の中にある偶像的な社会でもある。
樹海の中では基本、皆迷子になる。
中には自身が樹海に入った事すら気づかずに生涯を終える人もいれば、樹海が寧ろ心地よい場所として生涯を終える人もいるし、そもそもそこが樹海だと気がつかない人もいる。
今まさに目の前に、あれ、あそこが出口じゃね?というものが光を差して見える。
そこからは森林限界に達して木のない美しい山になっている。
ああ、登ってみたいな、きっと美しい風景が見られるだろうな、ていうか登る以外に選択肢ないよな、と思わせる光景が。
振り返ると、自分がずっといた場所は広大で地平線まで続くような樹海になっていた。
ああ、こんな場所にいたんだ、俺。そりゃ迷うわな、と。
そんな樹海の中にいつの間にかいて、マジで東西南北も、なんなら前も後も右も左もわからない状況で、多分俺はこっちなんだろうと心のコンパスの動きだけを頼りに、目の前の草をかき分けてかき分けて進んできた。
そうしたらここにきて、あれ?、出口じゃん、となった。
出口での心境は、入る前の心境に似ている。それはあくまでも樹海の外だったから、だろう。
ただ、入口と出口で異なるのは、入口は目の前が樹海になっているが、出口では目の前が見晴らしの良い山になっている。
森林限界を超えているのでそこに木はない。草花と空。
宗教的な解脱とか、そんなんじゃない。
そもそも何かの宗派とか信者とかではないし、申し訳ないが宗教こそ迷い子の為にあるものだと思っている。
ただ単に、樹海をサバイヴして抜けただけのこと。
抜けてみると、なんだ、こんなもんだったのか、という感想。
そんなことよりも、これからの山登りに俄然気が向いてくる。登れるだけ登って、その景色が見たい。
視界を遮る木々はもうない。
社会の中で悪意ある人間を山ほど見てきた。
なんなんじゃこりゃとずーっとずーっと思っていたが、途中で「育ちが悪い」の一言で片付けられるように思った。
でも、今はもっと正確に言える。そういう連中は皆「迷子」だ。
サバイバルを途中で止めたり、諦めたりしたら自分の座標を着実に見失っていく。次第に自分が何処にいるかさえもわからなくなる。
そんな迷子は、手当たり次第攻撃してみたり、暴れたり、取り乱したりして、自分の位置を確かめようとする。
しかしそんな事では位置は掴みようもないので、また直ぐに迷う。
そしていつの間にかコンパスを道端に落とし、自身が迷っている事すら気が付かずに、最期は樹海に入っていることすらも知らずに、目の前の数本の木々だけを見て生涯を終える。南無。
絶えず震えながら微細に動く心のコンパスの動きを注視し、俺、私にとっての進むべき方角はきっとあっちのはずだ、と草木をかき分けて進んで行く人は、心の座標に常に注意しているので、自分を見失わない。
たまに位置を見失っても「なんかおかしいぞ」と異変に気づき、コンパスを見直して直ぐに軌道修正ができる。
どうか、今も目の前の草木を刈りまくって進んでいる人は、そのサバイヴを止めないでほしい。
もう刈り疲れてこれ以上は進めないよ、という人も、諦めずにそのサバイヴを続けていってほしい。
なぜなら、サバイヴこそが生命体の唯一の義務だから。
サバイヴしているであろう人の話は、とても興味深く面白い。サバイヴの仕方は人それぞれだから。
noteを介して拝見させていただいている、意を決して高知県に移住したという方や、自身の容姿にどえらいコンプレックスをお持ちだという方がいたり。
サバイヴ。生きるってそういうことですよね。