思い出を「つくる」の違和感
思い出を「つくる」ってなーんか引っかかる。
私にも大切な思い出がたくさんある。そのたくさんの思い出たちに、これまで何度支えられただろう。だけどそれは「思い出つくるぞ」と思ってできた思い出ではない。そのときそのときを楽しんで、あとから振り返ったらいい思い出が残っていたのである。
身近ではあまり聞かないので、目にしたり耳にしたりするのは、本かテレビかsnsだろうか。
この違和感の正体がはっきりしたのは、先日NHK『カーネーション』の再放送を見ていた時のこと。
戦時中の昭和17年。主人公糸子のところに、近所のお姉さん的存在の八重子がやってくる。ふたりは少し前にある出来事で気まずくなっていたのだけれど、八重子は「夫が出征するから一緒に見送ってほしい」と糸子に頼む。
そのあとの八重子のセリフである。夫が「戦地で思い出したときに、ちょっとは明るい気持ちになれるようないい思い出をつくってあげたい」という内容のことを言ったのだ。
こういうときの「つくる」はしっくりきた。そうか、思い出をつくるということは、もうこの先辛いことばかりで何もいいことがない、という意味に聞こえていたのだ。
そう考えると腑に落ちた。
思い出をつくるなんて言ったら、もうこの先何もないみたいじゃないか。そういう気持ちがこの違和感につながっていたのである。
これからも楽しいことやいいことがきっとある。そんな想いもこめて「思い出をつくろう」とは言わずにいたい。