『クララとお日さま』が照らす「希望」
カズオ・イシグロさんの『クララとお日さま』(早川書房)を読了。発刊当初から、信頼すべき人々の間で評判が高いなぁと感じていたので早々に買って、結構忙しい合間を縫うようにして1週間ほど時間をかけて読み終えた。涙が止まらなかった。素晴らしかった。
『クララとお日さま』を貫くふたつの強烈な現代軸。それはAI(人工知能)と格差社会だ。物語の主人公で語り部であるクララは、人工知能搭載型のロボット。物語上ではAF(人工親友)と呼ばれる存在だ。これは読み進めながら想像していくことになるのだが、この物語上の世界では、子どもが(あるいは大人も)深刻な心理上の問題を抱えていて、そのためにAF(人工親友)が商品として発展していく途上にある。親は忙しく子どもとの時間を十分に取れないでいる。あまり数多くはいないであろう兄弟姉妹の代わりにAFを購入し、子どもの友人として、また見守り役、見張り役としての役割を期待する。
病弱な少女、ジョジーのAFとして購入されたのがクララ。この時代AFは、人々の好奇心の的であり、また警戒の対象であり、そして差別の対象でもある。このあたりは『鉄腕アトム』で手塚治虫が描いた世界観に通じる。人々はクララを警戒し、侮蔑し、戸惑いながらも、クララのあまりにも純粋なミッション(ただひたすらにジョジーのために!)を追求する姿に、少しずつ影響を受けていく。AF、人工知能、ロボット、機械……を受け入れていく。
もう一つの大事な軸が格差社会だ。この近未来と思われる世界では格差がさらに進み、限られた裕福な家庭の子どもだけが、「向上処置」という恐らくは手術のようなものを受けることができる。それを受けていない子どもは、ほぼまともな大学、進路には進めず、貧困を余儀なくされ、ステップアップを見込めない人生を送ることになる。ジョジーは向上処置を受けたが、幼馴染で初恋相手のリックは家が貧困だったために向上処置を受けることができなかった。格差社会が阻む難しい恋愛だが、ここでは、恋愛のピュアなストーリーもさることながら、この社会構造の不条理さ、分断、そしてそれから滑り落ちまいとする人々、なんとか這いあがろうとする人々の複雑な思いが交錯する――。極めて現代的なテーマを寓話の中に落とし込んでいく手際はいつもながら見事だ。
僕はカズオ・イシグロの作品は全てではないが、結構読んできた。2つの現代軸に加えて印象的な点を2つ挙げてみよう。一つは「記憶」。『忘れられた巨人』『わたしたちが孤児だったころ』などの代表作を通じて、カズオ・イシグロは一貫して人の記憶の曖昧さ、不確かさを問うている。それが最も鮮明に、ある意味で無骨なまでに分かりやすく表現されたのが『浮世の画家』だったのではないかと思う。ちなみに『浮世の画家』は、戦時中に日本精神鼓舞の画風で名を成した画家の小野が、終戦を迎えた途端に一変する世間の空気の中で、自らの記憶の曖昧さ、都合の悪いことは忘れてしまおうという気持ちで、存在自体が不安定化していくといったストーリー。渡辺謙主演、NHKでドラマ化されたのもをご記憶の方もいるのではないか――。僕の中では最も優れた作品という意味とは違う意味で、最も印象に残るカズオ・イシグロ作品だ。
クララとお日さまでも記憶は大事なモチーフだ。人々の間の消し難い屈辱、恨み、忘れたい気持ち……。そうした記憶の歪みが要所要所に顔を出して物語のアクセントとなる。ただ、何といっても今回の『クララとお日さま』では、主人公で語り部であるクララが人工知能であるところが大きな特徴だ。人間にはない物事の把握の仕方、薄れない記憶の確からしさがある一方で、人工知能たるクララが、子どものような状態から記憶を獲得し、整理し、抽象化していく様が描かれる。いわばクララの記憶に基づく成長の物語なのである。私たち人間は、どうしても獲得できない記憶の確かさや、判断を誤らせてしまう感情に悩まされている。『クララとお日さま』は、人工知能の“よい“助けを借りることができれば、私たち人間自身が今よりもっと幸せになれるというメッセージを発している。カズオ・イシグロさんはこの混迷の時代にあって、クララを通じて希望の物語を紡ぎたかったのだと思う。
もうひとつ、どうしても指摘しておきたいのが映像美だ。カズオ・イシグロ作品に共通する特徴だが、活字を読みながら、あまりにも鮮明に映像が目の前で展開していく。ショーウィンドーに飾られたクララの目を通して見える世界。お日さまがマクベインさんの小屋に差し込むときの奇跡のような瞬間。あるいは人工知能ならでは認識らしく、縦横に分割されたモザイク状の認知状態……。極めて映像的な想像力をかき立てる。ありていに言えば、この小説を読んだらキャスティングをして映像にしてみたいという誘惑にかられない人はいないだろうと思う。
恐らく近い将来、確実に映像化されるだろうと思うが、駄作になってしまうのであれば見たくない。駄作化した映像作家を呪いたくもなるだろう。でも、原作の良さをさらに引き立てる見事な映像にしてくれる誰かがいるのであれば、ぜひ見てみたい。映像化に挑戦するには勇気の必要な作品だ。
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