TRAIN TV感想(2024年9月)
TRAIN TV「ひらめきニュース」で引退したバスをサウナに生まれ変わらせましたとやっているのだけど、これまるっきり同じ内容を数ヶ月前に放送している。わたしの目はごまかせない。
注:後日見直したら、サウナバスの2号ができたと言う話だったので、わたしの目は節穴だった。
ヒカキンはよく何かに耐えている。今週は3つ映し出しされるヒカキンの表情のうち、氷水の中に両足を浸けているのはどれかを当てるというものである。ひとつは苦痛に歪む表情、ふたつめはじっと微笑んでいて、みっつめは時々口角に歪んだ皺がつくが基本的には真顔である。正解はみっつめだ。
現代社会に生きるということは常に氷水に両足を浸けるようなものだ。もちろんわれわれが素直に苦悶の表情を浮かべることなど許されず、ましてや微笑むなどすれば「ヘラヘラするな」と罵声が飛ぶ。ただ表情を変えず、じっと耐えることを要求されるのだ。ヒカキンはいつだってそんなわれわれに寄り添い、このネジの緩んだ社会を風刺しているのだ。
チョコプラのコーナーはチョコプラ扮する柄の悪そうな4人のうち誰に道を聞いたら教えてくれるかをあてるクイズ?なのだが、なんだかとてもただ「つまらない」と書いたらわたしがただつまらない人になってしまいそうなほどコメントが難しいネタになっている。試される電車内広告ことTRAIN TV。
「テックのドヤ話」で「DJがキュッキュしてるあれはなに?」という質問に「それはスクラッチだよ」と回答している。どうしてもDJというとスクラッチのような派手なパフォーマンスを思い浮かべてしまうのだろうけど、実はスクラッチを多様するのは主にヒップホップ系の一部のDJに限られるし、この場合、スクラッチではなくて(次の曲の)頭出しやテンポ合わせと答えるのが妥当なのではないだろうか?
あと、スクラッチの起源を練習中にお母さんに怒られてレコードを手で止めたらそういう音がでたからと説明している。もしかしたらそういう説もあるのかもしれないけど、聞いたことないしとりあえず出てきた面白そうなエピソードを採用してる感がいなめない。やはり、知らないことについては中途半端な知識でドヤ顔するより、素直に知らないと言える人間の方が素敵だと思うよ。
TRAIN TVの「わらめっこ」で両脇の会話に入れないというネタをやってるのだけど、今週、行きたくない親睦会があるのでたぶんわたしもそうなるだろうなという未来予報を見せられている。もう辞める仕事に親睦なんてないし、飲み会だけ増やしても、そんな小手先のことでは、この職場の定着率があがるとも思えない。
TRAIN TVの続くコーナーも「フードロス削減のアイデア」として「閉店後に利用できる自販機」を紹介していたので、この世は小手先の対策で安心する傾向があるようだ。
今週の「ヒカキンの挑戦」は四文字熟語をジェスチャーで表現し、それを当てるというもの。まずヒカキンは両腕をくっつけ手を広げ、次に両手をパタパタさせた。この時点はわたしは「花鳥風月」だってわかりましたよ。
真剣に考えてる自分がきらい。
今週のヒカキンは3回ドッキリを仕掛けられてそのうち何回驚くかをクイズにされている。ご存知の通り、この世界では「ドッキリ大成功!」の札が出された途端、どんな理不尽な扱いもなかったことにしなければならないのだ。こんな理不尽だらけの世の中に生きていてわれわれが最期に目にするものもやはり「ドッキリ大成功!」の札なのだろう。現世の罪は赦された。
今週は今の今までチョコプラの姿を見なかったので「ひょっとしてチョコプラのコーナーは終わってしまったんか?」と思っていたのだけどやっと会えたね。
今週のチョコプラはTT兄弟を名乗り、電車の中のTを見つけようと呼びかけていた。例えばそれは電車の扉だったり、吊革の金具だったりと電車の中のT字のものを紹介していた。チョコプラといえば、なんとか占いと称して支離滅裂な占い結果を応えたり、なんとか競争と称してぬいぐるみやおもちゃでわちゃわちゃやってる哲学的難解さを伴うことばっかりやっていたので、ようやくここに来て、「わかる。わかるよ!何がしたいのかわかる!」という内容を放送していて、放送開始以来、TRAIN TVを追いつづけているわたしは涙を禁じ得なかった。
TRAIN TVで食事中のスマホ操作を行えなくなる仕組みとして、底を半分に削り、スマホをコースター代わりに差し込まないと自立しないグラスを紹介している。
なんでこんなスマホ依存みたいな人たちばっかりになってしまったのだろうか?スマホが誕生する以前のことは思い出せないけれど、こんな歩きながらいじるほどに携帯電話をいじっていたり、携帯ゲーム機に夢中だった人たちはいたんだろうか?
気がつけばお前たちの精神はスマホに捕らわれしまったといっても過言ではない。お前たちはいつのまにかスマホを通してしか世の中を見ることができなくなってしまったのだ。この道を行けばどうなるのか、そのふたつの眼で見つめるのは道の先ではないスマホである。人々は未来を見るではなく、スマホを見る。そうやって未来へすすむことを放棄し、スマホへと向かうのだ。
生きとし生ける者たちよ。スマホを捨てよ。町へ出よう。コロナにかかる。(という文章をスマホで打っている)
今週のヒカキンは「ヘビー級のヘビ」などダジャレイラストを描いている。TRAIN TV自体の価値はライト級だが。
TRAIN TV、今週のチョコプラはチョコプラが何を言っているのかを当てる読唇術クイズ。しかし、チョコプラのやりとりは支離滅裂なので、難問になっているというものだ。
考えてみれば人間の会話というものは聞き間違いなどによってどんどんわき道に逸れていくということがままある。おそらく期待とは違う相手の返答に「そういうこと聞いたんじゃないのだけど」と思いつつも、大した話題でもなければ訂正せずに進むため、そういうことが起こるのだろう。
SNS上ではもっと顕著だ。限られた文字数、表現力、読解力の異なる者どうしの蠱毒、インターネットにおいては誤読、一方的な主張、諦観にあふれている。読唇術は文脈がわかるからこそ読み取ることのできるいわば対話の共同作業である。そういうネタを通して、チョコプラは対話不可能性に警鐘を鳴らしたかったのかもしれませんね。
TRAIN TVで行楽シーズンにみんなで食べる、たくさんのおにぎりを作るひらめきとかやっているのだけど、資本主義社会においてそんなものは資本の力に頼ればあっという間にたくさんのおにぎりが用意できると思う。必要なのはひらめきではなく資本の力だ。
もちろんそうやってたくさん作られたおにぎりの分配もおにぎりの生産により多くの資本を提供した者に多く分配し、労働力を提供した者にはより少なくなるよう分配が行われる。労働者は限りあるおにぎりに餓え、資本家はそのありあまるおにぎりを破棄するのだ。