見出し画像

⑭デヴィッド・ゲフィン この世で一番リッチなゲイ!(後編)

画像8
David Geffen
1943年2月21日生まれ。米・ニューヨーク出身。


【この記事をご覧になった特別な方へ】楽天モバイルは、月2,980円(税込3,278円)で安定した高速回線が使い放題!下記リンクから楽天モバイルに乗り換えた方は、新規ご契約の場合14,000ポイントをプレゼント。また、広告なしで動画を楽しめるYouTubeプレミアムを楽天モバイルご契約者様対象に初回3ヶ月無料で進呈します。
まずはこちらからログインして特別なご案内をご確認ください。


前編はこちら

前編はこちら

故郷ニューヨークへ戻る

ゲフィンに比肩する日本人、というと少し大げさだけど、エピック・ソニー(山口百恵から郷ひろみ、松田聖子も所属したレーベル)の創始者である丸山茂雄は日本の音楽業界の雄とされていまして、ゲフィンとは同年代人です。ちょうどいま日本経済新聞のコラム『私の履歴書』でフィーチャーされています。

かつてクライヴ・デイヴィスが率いたCBSレコードは、日本のソニーとの合弁で、1968年に「CBS・ソニーレコード」というレコード会社を起こします。その後、78年にエピック・ソニーというレーベルが立ち上がるのですが、丸山茂雄はそこで数十年にわたって手腕を振るい続けました。佐野元春やドリカムを世に生み出し、一時期は小室哲哉のマネージャーもつとめたことも。88年にCBS・ソニーは創業時の合弁相手であったCBSレコードを買収。丸山はCBS・ソニーの取締役に就任します。

世界に販売網を持つ大手レコード会社が日本企業の傘下となり、その後、ソニー・ミュージック・エンタテインメントと名前を変え、いまやユニバーサル、ワーナーと並び世界の音楽ビジネスの「ビッグスリー」を形成しているわけです。

さて、アサイラム・レコードというウェストコースト・サウンドの金字塔とも謂えるレーベルを立ち上げ、それをあっさりとワーナーに売却して大金を得たデヴィッド・ゲフィン。しかし皮肉なことに、シェールと交際を始めるも見事にフラれ、さらにはガンを宣告されて途方に暮れます。そうして西海岸からニューヨークに舞い戻ってきた、そこまでの話を前編でお送りしてきました。時は1977年、ゲフィンが34歳の時でした。

画像2
ジョニ・ミッチェルとデヴィッド・ゲフィン
奥に見えるふくよかな女性はキャス・エリオット

70年代のシンガーソングライターブームの中、アサイラムは時代に即したアーティストを次々と輩出し、大きく成長していきました。カントリーロックが商業的な成功をおさめていくのもちょうどアサイラムの歴史と重なります。イーグルスはもちろんですが、あの頃、リンダ・ロンシュタットという女性シンガーが一際輝きを放っていました。リンダのキャリアにおいて最も売れたアルバム『夢はひとつだけ』は、アサイラム・レコードから1977年に発売されました。

高校時代によく聞いていた"It's So Easy"はこのアルバムに収録されているんだけど、僕個人のバイブル的映画『ブロークバック・マウンテン』(2005)のサウンドトラックにおさめられていたからで、当時はリンダのことなんて何も知らなかった。

リンダ・ロンシュタットは1970年代のテイラー・スウィフトってな感じで、アイドル的な可愛さと実力を兼ね備えたアーティストだった。ドリー・パートン、エミルー・ハリスらとトリオを結成して歌ったりもしたんだけど、これ元祖「カントリー娘。」じゃんね(笑)ちなみにイーグルスの結成秘話なんだけど、リンダのバックバンドとして集められたミュージシャンたち、つまり若き日のグレン・フライやドン・ヘンリーたちが意気投合してできたわけだ。リンダはイーグルスの「デスペラード」を初めてカバーした歌手でもあります。

そんでそんで、ドリー・パートンが生んだ超名曲「アイ・ウィル・オールウェイズ・ラブ・ユー」をカバーした歌手のうちのひとりでもあって、世間一般によく知られているホイットニー・ヒューストンのバージョンと歌い方が似てんだけどさ、きっとホイットニーはリンダの歌い方を参考にしたに違いないね。ドリー・パートンのオリジナルはまったく別もんだもんね。

さて、閑話休題。ニューヨークでは、カルバン・クラインと知り合い、開業したばかりの高級ナイトクラブ「スタジオ54」に入り浸るようになります。そこはまさにセレブリティの社交場といったところで、ウェストハリウッドとはまた異なる雰囲気がにありました。ゲイのパイセンであるファッションデザイナーのホルストンやイヴ・サンローランともここで知り合います。

画像1
スタジオ54
上段左からデヴィッド・ゲフィン、ホルストン先生、イヴ・サンローラン先生

金さえ払えば何でも手に入る、そんな世界線にまで達しても、満たされないものがある。お金で買えないものがある。ゲフィンの苦しみ。シェールと別れたあと、マーロ・トーマス(女優)と交際をするのですが、それも短命で。その後もポール・サイモン(サイモン&ガーファンクル)の紹介でキャリー・フィッシャー(映画『スター・ウォーズ』のレイア姫役)と付き合うのですが、キャリーは結局サイモンと結婚しちゃうのよねー(!)。

アサイラムをワーナーに売却した折、スティーヴ・ロス率いるワーナー・コミュニケーションズの映画部門で副社長を任されたゲフィン(5年契約)でしたが、その職もようやく解かれ(この役職に就く間は他の事業をしてはならないというものだった)、さらにまた大ニュースに直面します。なんと下されていたガンのセカンドオピニオンを診てもらったところ、実は誤診であったことがわかります。

人生引き潮あれば、満ち潮あり。ゲフィンの人生は、ここからまた新たなフェーズに突入してゆくのです。

ゲフィン・レコード黄金時代

1980年、時のワーナー・レコーズのトップとして音楽業界の覇権を掌握していたモー・オースティンの後援を得て、ゲフィンは新たなレーベル設立の準備をはじめます。レコードのマーケティング、プロモーションからバックオフィス・オペレーションまで、ワーナーから全面的な支援を受けることに成功しました。

レーベルの名前は「ゲフィン・レコード」。自分の名前を冠したわけは、カルバン・クラインにそうしたほうが「もっとモテるようになるぜ」と言われたからだそう・・・。

画像9
デザイナーのソール・バスがデザインした「ゲフィン・レコード」のロゴ

ゲフィン・レコードが初めてリリースしたのは、ドナ・サマーのアルバム『ザ・ワンダラー』(1980)でした。古巣カサブランカ・レコードとの軋轢から、ドナ・サマーがゲフィン・レコードへと移籍してきた形です。さらにこの年、ジョン・レノンが5年の音楽活動休止を経てオノ・ヨーコとの共作名義でアルバム『ダブル・ファンタジー』をリリース。

しかしこのアルバムの発売から数週間後の12月8日夜、ジョンは凶弾に倒れ死亡します。アニー・リーボヴィッツが撮影した、全裸のジョンがヨーコを抱擁するあの有名な写真が撮られたのはこの日の朝のことでした。ゲフィンは電話でその報せを知るとすぐさま病院へと向かい、憔悴しきったヨーコをマスコミから家まで守り届けました。

画像3
つらい表情のオノ・ヨーコを報道陣から庇うゲフィン(1980年)

ジョンの死後、結果として『ダブル・ファンタジー』は全世界で500万枚以上セールスを記録し、ジョン・レノンのソロ最大のヒットとなりました。

その後もゲフィン・レコードからは数多くのヒットが生まれます。ちょうどエルトン・ジョンも移籍してきて、『トゥー・ロウ・フォー・ゼロ」(1983)という80年代の彼の記念碑的なアルバムが生まれました。そして、イーグルスのボーカル兼ドラマーであったドン・ヘンリーのソロアルバム『ビルディング・ザ・パーフェクト・ビースト』(1984)と続く『エンド・オブ・ジ・イノセンス』(1989)の2枚のアルバムなどがゲフィン・レコードが生んだヒット作品です。カイリー・ミノーグもデビュー当初は所属レーベルがゲフィン・レコードでした。

さらに、元ジェネシスのピーター・ガブリエルの『So』(1986)も大ヒット(フィル・コリンズもまた飛ぶ鳥を落とす勢いでしたが)。この時代の音楽めっちゃ沁みるんだぁ。パット・メセニー・グループの"Last Train Home"(ゲフィン・レコード移籍後初の1987年のアルバム『スティル・ライフ』に収録)なんてドンピシャリ。

Last Train Home - Pat Metheny Group(1987)

The Boys Of Summer - Don Henley(1984)

I'm Still Standing - Elton John (1983)

Don't Give Up - Peter Gabriel(1986)

やがて音楽シーンでハードロックが潮流となると、ガンズ・アンド・ローゼスをデビューさせ、またエアロスミスを他レコード会社から引き抜き数々の名盤を発表させます。成功裡には、トム・ズータウやゲイリー・ガーシュといった敏腕A&R(アーティストの発掘から育成、またアーティストにあった楽曲の制作・宣伝を業務にする人)をゲフィンが雇っていたからといっても過言ではないでしょう。

画像11
レジェンドのディーン・ピッチフォード先生が作詞して、シェールとピーター・セテラ(シカゴ)が歌った「アフター・オール」のレコード

そして、シェール(出たw)の80年代最大のヒットアルバム『ハート・オブ・ストーン』はゲフィン・レコードの作品なんですが、元恋人のレコードを出してあげるなんて、なんて寛大なのゲフィン先生。どういう意図なの?

シェール姐さんは1982年のアルバム『アイ・パラライズ』の発表後、87年までの5年間はメインの仕事を女優業へ切り替えることに。この頃の姐さんの出演歴はボブ・マッキー先生の記事で既出ですが、83年の映画『シルクウッド』でゴールデングローブ賞助演女優賞、85年の映画『マスク』でカンヌ国際映画祭女優賞、そして87年の『月の輝く夜に』でアカデミー主演女優賞といったように、ホップ・ステップ・ジャンプといった具合で見事に女優としてのキャリアを積み上げていきました。

そしてミュージックシーンへのカムバックは、1987年のセルフタイトルアルバムが皮切りとなります。ゲフィン・レコードと契約したわけですね。あの破局から10年。どういう事情なのか分からなかったけど、ゲフィンとシェールはズッ友になったわけだね。ビジネスとプライベートライフは別モノ、というゲフィンの経営哲学が垣間見えるような。

画像12
デヴィッド・ゲフィンとシェール(1975年頃)

マイケル・ボルトンやジョン・ボン・ジョヴィ、そしてデスモンド・チャイルド先生らのプロデュースによるこのアルバム『シェール』は商業的なヒットにも恵まれます。いま挙げた面々に加えてダイアン・ウォーレンが、ゲフィン期のシェール姐さんの音楽の立役者って感じですね!そして89年に前述の『ハート・オブ・ストーン』が大ヒット。あの"If I Could Turn Back Time"ですね。 

シェール姐さんの恋愛遍歴

1987年のアルバム『シェール』のリードシングルである"I Found Someone"のミュージックビデオには、当時の姐さんのボーイフレンドであったロブ・カミレッティを出演させています。姐さん42歳、一方ロブちゃんは24歳。

どうしても姐さんの話になっちゃうわねw(笑)しょうがないね、ゲイ曼陀羅の中心、蓮の花のごとく慈悲を象徴するお方でいらっしゃるから、姐さんは。恋をする男たちの永遠の味方なのよ。そんな姐さんがガーディアン誌のインタビューで「いままで付き合ったオトコで一番愛してたのはダレ?」って訊かれてて、ロブ・カミレッティって答えてたわ。

シェールはゲフィンを振って、グレッグ・オールマンと結婚した件は前編でも触れました。姐さんはグレッグとのデュエットアルバムを77年に発売。一男をもうけますがあえなく離婚。その後、KISSのジーン・シモンズと逢瀬を重ね、さらにトム・クルーズ、ヴァル・キルマーとも恋仲に(もはやシェール姐さんが『トップガン』だわよ)。

画像5
姐さんとグレッグ・オールマン
画像4
姐さんとうら若きトム・クルーズ

そしてロブ・カミレッティちゃんが現れるのです。くりくり可愛い男の子。Maclean's誌にふたり出会った時のことが書いてた。姐さん40歳の誕生日の夜、当時の恋人ヴァル・キルマーとマンハッタンのカフェを訪れたそう。そこでロブちゃんに一目ぼれ。雷に打たれたようなあの感じ、わかるわー姐さん。昼はベーグルを焼いて、夜はバーテンダーとして生計を立てながら俳優を目指していたロブちゃん。

画像6

なんとロブちゃんが出てるミュージックビデオって"I Found Someone"の他にふたつもあるのね・・・"We All Sleep Alone"と"Main Man"、どっちも堂々とロブちゃん出演してるじゃない。そしてデズモンド先輩の曲だわ・・・

ヒモ化していたであろうロブちゃん。メディアからも相当のバッシングがありました。「ベーグル・ボーイ」なんて呼ばれちゃってね。しかしながら89年に、このロマンティックな交際にも終止符が打たれると、息継ぐ間もなく今度はボン・ジョヴィのリッチー・サンボラと付き合います。可愛い子ちゃんを喰うよなぁ・・・まじで姐さん。

画像7

『ドリームガールズ』と『キャッツ』

シェールの話ばっかりしてんじゃねえよ、と叱られてしまうので(まあいつものことですけど)、デヴィッド・ゲフィンの話に戻ります。1982年にスティーヴ・アンティンという19歳の俳優と出会ったゲフィン。なによ、シェールに負けてないじゃない。若い子喰っちゃって。そんでもってふたりは逢瀬を重ね、ゲフィンにとってはボーイフレンドとしてお母さんに紹介したはじめての男でした。

画像10

この上の写真なんだけど、ゲフィンを挟んで左にスティーブ、右にシェールなのね。約30年後、スティーブは映画『バーレスク』を監督し、奇しくもシェールがクリスティーナ・アギレラとダブル主演な形で出演するわけなんですが、これも人の縁ですわね。。『バーレスク』が公開されたとき、僕は大学生で新宿の映画館でバイトをしていて。ポップコーン売りボーイだったんだけどさ、映画館のロビーではクリスティーナ・アギレラが彼女のシグネチャー的ないつものヒス声で「ウォォオゥゥゥ~」って歌う予告編が流れてて。強烈な記憶があるんだけども、この映画でシェールは、ダイアン・ウォーレン先生が作曲した"You Haven't Seen The Last Of Me"を歌ってて、結構ヒットした。

スティーブ・アンティンのお姉さまは、あのプッシーキャット・ドールズ(ニコール・シャージンガー)を結成して世に生み出した人で、けっこーやり手なお姉さまでいらっしゃるの。ストリップティーズ風の、えちえちなパフォーマンスを志向していた結成当初のプッシーキャット・ドールズは、それこそ『バーレスク』に出てくる一座みたいだったわけで、スティーブはそのグループのすったもんだを翻案して映画の脚本を書き上げたとか。

さて、1981年にブロードウェイでミュージカル『ドリームガールズ』の上演がはじまります。演出・振付を手掛けたのは『コーラスライン』で知られるマイケル・ベネットです(残念ながら87年にエイズ関連の疾病で亡くなります)。ベネットとゲフィンとは旧友でしたが、この作品の上演にあたり経済的な支援の相談を受け、メトロメディア、シューベルト・オーガニゼーションらと共にこの作品に出資をします。さらに合わせて作品の映像化権を購入します。さすが、早々からビジネスのにおいを嗅ぎつけていたようですね。。。

また、81年にロンドンで初演されたミュージカル『キャッツ』のブロードウェイ公演にあたっても、先に挙げたシューベルト・オーガニゼーションからの依頼を受けて金銭的支援をおこないます。82年にスタートしたブロードウェイ公演は興行的なヒットに恵まれ、2000年までの18年間という長い長いロングラン公演となりました。現在ニューヨークで最も長く上演されている作品は『オペラ座の怪人』であり、『シカゴ』、『ライオン・キング』に続いてこの『キャッツ』が今でもロングラン記録第4位を維持しています。

また、ショービズでの成功はミュージカルにとどまらず、映画業界にも進出。トム・クルーズの出世作となった『卒業白書』を製作します。また、82年にハワード・アッシュマンとアラン・メンケンがヒットさせたミュージカル『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』を映画化。

画像21

とはいえゲフィンがレコード業界にとどまらず、八面六臂の大物になったのはなんら不思議の無いことで、思い返せば17歳の頃、故郷ブルックリンからロサンゼルスにはじめて向かった時、彼の胸にあったのはスターへの憧れ、きらきらとしたエンターテインメントの世界だったはずです。CBSテレビジョンシティをクビになったあと、ゲフィンはウィリアム・モリス・エージェンシーやアシュリー・フェイマスといったタレント・エージェントの仕事に若い頃は没頭していました。ビジネスの鋭い勘が働くようになった彼は、巨大な市場機会がエンターテインメント業界のいたるところにあることを知ったのです。

こうしてゲフィンの会社はどんどんと強大になり、90年にMCAに売却することに。そこで5億ドル相当のMCA株を取得します。その1年後、MCAは日本の松下電器に買収され、ゲフィンは結果6.7億ドルもの資本を得ました。日本円で700億円相当ですね。こうして世界一のお金持ちの仲間入りをしたわけです。

1992年のカミングアウトと合衆国大統領選挙

画像20

ハワード・アッシュマンがエイズで亡くなったのが1991年。同年、フレディ・マーキュリーも命を落としていました。前年はホルストンもエイズが原因でなくなります。50代に差し掛かったゲフィンは既に贅沢し尽してきました。手元にあるお金をエイズに関する支援に注ぎ込もう、そういった使命で多額の寄付を行いました。税金対策?まあもしかするとそう捉えられてもおかしくないけど。

ちなみに寄付先にはもちろん、ラリー・クレイマー先生が創立した「GMHC(ゲイ・メンズ・ヘルス・クライシス)」も含まれていました。

92年、非営利団体のエイズ・プロジェクト・ロサンゼルスはデヴィッドの功績を称え「コミットメント・トゥ・ライフ」アワードを授与します。同じこの舞台でバーブラ・ストライザンドも受賞の栄に輝きましたが、奇しくもバーブラこそ、ゲフィンがまだCBSテレビジョンシティで雑用係だったときにはじめて会ったスターのひとりでした。あれから30年の年月が流れました。

ハリウッドで行われたこの授賞式には数多くのスターやセレブリティが訪れ、ビリー・ジョエル、ケニー・ロギンス、エルトン・ジョン、アーロン・ネヴィルといった豪華な面々が「ウェスト・サイド・ストーリー」のメドレーを歌いました。さらに受賞のスピーチのなかで、ゲフィンは公然の面前ではじめて自分がゲイであることをカムアウトしたのです。

92年はもうひとつ大きな出来事がありました。11月、アメリカ合衆国大統領選挙です。周知のとおり、ビル・クリントンが現職のジョージ・ブッシュ(父)を破り当選するのでが、ゲフィンはクリントン陣営の資金調達にかなりの貢献をしたそう。

画像13

バイデン政権下で駐日大使を務めるラーム・エマニュエルは、インタビューでデヴィッドとの当時の仲を振り返っていますが、ラーム・エマニュエルこそ、92年の大統領選におけるクリントン陣営のファンドレイザーであり、資金集めに奮闘していたクリントンをゲフィンに引き合わせた当事者でした。また、エマニュエルが2011年にシカゴ市長選に出馬した際にもゲフィンが援助を行いました。

92年大統領選では同性愛者の権利向上が争点のひとつであり、ビル・クリントンは同性愛者の米軍入隊を禁じる規定の撤廃を公約に掲げていました。しかし、実際はその約束が果たされることはなかったのです。妥当の産物か、はたまた、まやかしの成果というべきか、 クリントンは中間選挙を目の前にして「Don't ask, don't tell」政策を採るのです。

画像19

「聞くな、言うな」という読んで字のごとく「同性愛者かどうか問うことはしないけど、同性愛者だと公言しないなら軍隊に入ってよいよ」という中途半端なものであり、依然として同性愛者が軍の除隊対象となるという方針が変わることはありませんでした。この政策下で、1万人を超える米兵が同性愛者であることを理由に兵役から退く羽目になったといいます。ゲフィンがクリントンに失望したというのは言うまでもありません。

そして2008年の民主党予備選挙では、大統領候補の座をめぐってヒラリー・クリントンとバラク・オバマが争う形となりましたが、ゲフィンはオバマ側に付くという判断をしました。そればかりか、ニューヨーク・タイムズの敏腕コラムニストのモーリーン・ダウドの「オピニオン」ページ上で、ヒラリーを辛辣に批判する様子が取り上げられ大変な話題となったのです。

画像15
ゲフィン(中央)と彼の当時の恋人(後述)がオバマと面会する様子

もはやゲフィンは単なる億万長者にとどまらず、キングメーカーとして政界にまで影響を与える人物となっていました。結果オバマは大統領に就任し、さらに重要なのがビル・クリントンが布いた「Don't ask, don't tell」政策を2011年に撤廃します。こうして同性愛を隠すことなく軍隊に入隊することが可能となり、さらに過去に除隊された同性愛者も再び軍に戻ることができるようになりました。

アメリカ海軍慣例の「ファーストキス」というイベントは、帰港した水兵を恋人がキスで出迎えるというものですが、2011年に初めて女性同士のカップルが選ばれました。まさに「Don't ask, don't tell」撤廃の象徴といえる瞬間でした。

画像14

ドリームワークス、そして邯鄲の夢

画像16

どーん!わかる人にはわかるこの画力!スティーブン・スピルバーグ(映画監督)とジェフリー・カッツェンバーグ(ディズニー・ルネサンス期の立役者)、そしてデヴィッド・ゲフィン。まさに東方の三博士、ユダヤ三兄弟。このビッグスリーが95年に会社を設立します。その名も「ドリームワークスSKG」。SKGのイニシャルはもう分かりますよね。醤油かけごはん、、、じゃなくて、Spielberg、Katzenberg、Geffenの頭文字ですね。このヒットメーカー3人がエンタメ界を欲しいがままに牛耳る、そんな感じですね。

実写映画部門をスピルバーグ、アニメーション部門をカッちゃん(長いから略したw)、そしてレーベル部門をゲフィンといったようにそれぞれが担当しました。そもそもドリームワークスは、ディズニー社の次期社長に立候補したのを上司に拒絶されたカッちゃんが「なにくそこんちきしょー」と思ってスピルバーグとゲフィンを誘ったのがはじまり。ドリームワークスのアニメーションといえば『シュレック』だけど、これこそディズニーへのアンチテーゼだよね。

実写映画も『プライベート・ライアン』、『アメリカン・ビューティー』、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』など話題作を続々と発表。そしてゲフィンが手に入れていた『ドリームガールズ』の映像化もビヨンセ主演で果たすのです。ついにこのカードを切った、ってな感じね。ちなみにこれまでも何度か映画化しようと試みたらしいんだけど、そのうちの一案はハワード・アッシュマン脚本、ホイットニー・ヒューストン主演、といったプランだったらしいわ。いま思うと、見てみたいわね。とりあえず合掌。(本来主役が歌うはずじゃない"And I Am Telling You..."をホイットニーがどうしても歌いたがったらしくて計画がオジャンになったんだとか)

そんでもってレコード部門はというと、最初に出したのがジョージ・マイケル(来たw)の『オールダー』(1996年)なわけで。アツいね。「ファストラヴ」だね。余談ですが98年に公然わいせつで逮捕されゲイである事実が曝露されてしまうジョージ・マイケルですが、そのときマスコミを避けるためにゲフィンの家で身を隠していたとか・・・。

順調とは思えたものの、まあとはいえ盛者必衰の世の中でございます。10年後の2006年、ドリームワークスは大手メディアコングロマリットのバイアコム傘下に入り、分社化されていたアニメーション製作部門のドリームワークス・アニメーションも2016年にコムキャストに買収されています。スピルバーグは今もドリームワークスのチェアマンを務めますが、カッツェンバーグはコムキャストの買収時に退任。あれ、ゲフィンはどうなった?と思うでしょうが、2003年にあっさりとレコード部門が身売りされていたんですね。。。

2012年には、ゲフィンが若い男の子と破局したというニュースが世に流れました。当時69歳だったゲフィンが付き合っていたのは28歳のプータロー君こそジェレミー・リングヴァル青年でした。ジェレミーが大学を出た2006年に二人は関係を始め、6年間一緒に居たそうですよ(出会った時点では22歳と63歳か・・・)。オバマ大統領が就任後初めてのホワイトハウスで国賓歓迎会を開いたときに(2009年、インドのシン首相の訪米にあたって)、ゲフィンがホワイトハウスに連れてきたのはジェレミー君でした。それが前に出した写真ですね。

画像17

お孫ちゃんではないですよね。といった感じ。ジェレミー君にとってはシュガーダディだったのか、なんなのか。にしても6年も続いたとは。とはいえ、世界で指折りのお金持ちの元で、何の不自由もなく暮らしていたのでしょう。ちなみにシザー・シスターズのジェイク・シアーズ姐さんとのDJデュオで「クリスタル・ペプシ」という名義でCDデビューもしてる。

画像18

ジェレミー君、今は不動産エージェントをしてるっぽいですね。

現代の好色一代男

画像22

ハリウッドに来て、まず夢を掴みたかったらどうする?ゲフィンは何をしたかというと、履歴書をごまかしました。そのあとコネを築き、コネを使い、カネになりそうなものにはすぐに飛びついていった。次第に彼を頼る人が増えていき、昼夜彼の電話は鳴りっぱなしだった。決断は常に早い。損得勘定が彼の頭であっという間になされていた。人に対しても、はっきりと物申すたちで、それが良かったんでしょう。あくまでも常に「黒子」として、大物アーティストを支えながら、着々とビジネスを拡大していきました。

ゲイである自分にゲフィンは素直になれていたかどうか、それも振り返ってみましょう。若い頃は仕事の忙しさにかまけて、セクシュアリティを深く考えることはなかった。否、その頃、時代はまだ自分がゲイであると断言するのが今みたいに容易いことではなかったんだろう。

跡継ぎもいなければ、伴侶もいない。いまでは経営者でもないから、ゲフィンはいま、ひとり自由な、人生の旅路の、まあ例えるなら、旅の終わりの方にいるといってもいいでしょうね。一概に「旅行の思い出」として人が振り返ることができるは、旅行中で一番楽しかった出来事と、旅行のいちばん最後の時のみで、それ以外の記憶は抜け落ちてしまうといわれています。ゲフィンにとって、一番楽しかった人生の出来事はなんなんだろうね。

70年代初めのアサイラム・レコード時代?ニューヨークに帰省していた30代半ばの頃?80年代のゲフィン・レコード時代、それともドリームワークスでスピルバーグたちと一時代を築いた90年代半ばから2000年代のはじめ?ジェレミー君といた6年間?

ゲフィンは、世界でも指折りの高額な大型ヨットを所有しています。オプラ・ウィンフリーやトム・ハンクス、バラク&ミシェル・オバマ夫妻など、彼のヨットで多くのセレブリティがパーティーをする姿がメディアでよく取沙汰されています。

画像23

老人と海。人生という航海のなかで得たものと失ったもの。井原西鶴の江戸時代の小説『好色一代男』は色恋の達人・世之介の一生を描いたもので、クライマックスで現世の色恋を知り尽くした世之介が「好色丸」という船に乗って消息不明となります。まさに、億万長者デヴィッド・ゲフィンにとっての「好色丸」はこのヨット「ライジング・サン」号であり、彼も世の中の憂いなど忘れて今日も心の向くままに海に出るのでしょう。人間の欲は尽きないものですから、より高く、より速く、より遠くへ。

画像24



【この記事をご覧になった特別な方へ】 楽天モバイルは、月2,980円(税込3,278円)で安定した高速回線が使い放題!このページのリンクから楽天モバイルに乗り換えた方は、新規ご契約の場合14,000ポイントをプレゼント。この記事の上部にあるご案内からログインしてご契約ください。