I.異動が言い渡されてから
時系列にのっとって記していくのであれば、ここから始めるのが筋だろう。
ただ、異動を言い渡されたのは2月で、大連で隔離を受けている今は8月である。半年前の話については、かなりうすらぼやけたことしか書けないし、なにより大したことはしていないのでおおまかに書いていく。
本社にいる間が最も「無為」という言葉が適切な日々を過ごしていた。
①異動決定~3月末
3月末までは今の事業所の所属だし、立つ鳥後を濁さずだぜ!って思って仕事をしまくった結果、過去最高の残業時間をたたき出した。しかし、終わってみると後はだくだくに濁っていた。みんな!すまねぇな!(小声)
言い訳をすると、大型の工事案件を抱えていたり(早くすませとけよ)、引継ぎ書類を作ったり(手順書作っとけよ)、ちょっとした宴会があったり(気をつけろよ…♡)と、ばたばたしていた。つまり、それまでと変わらず充実して仕事を謳歌していた。
②4月~6月
4月の早々は本社に出勤した。赴任までは待機組なので、つまりは仕事がない。いろいろ勉強したりして時間をつぶしていたが、緊急事態宣言が大阪に発出された時点で自宅待機が決まった。在宅勤務でなく自宅待機。つまり、業務なし、家ないしは周辺でじっとしてなさいとのお達しである。ほとんど全く時を同じくして、妻も在宅となったので、ずっと妻と暮らしていた。近所を散歩して、川をはねるボラを眺めたり、金融街の裏手にある古い建て物を鑑賞したりと充実した暮らしを送っていた。スコーンを焼いたり、ジャムを炊いたり、古い図面をCADに起こしたりとやることもそれなりにあった。また、このころはオンライン○○がはやり、オンライン飲み会とオンライン中国語会話の実績解除をした。正直言って、出立が決まるまでこの生活でいいんじゃねぇの…と思っていた。 この間に行った場所で最もよかったのは、舞洲であった。梅田駅から自転車で行けばいい運動になるし、人もあまりいない。しかも公園内にビオトープがあった。メダカやザリガニが繁殖しており、摂餌も警戒心なくする楽しい場所だった。ちょうど八重咲のクチナシがほころびはじめ、初夏の芳香を感じる頃であった。
②6月~ビザが取れる話がでてくる
緊急事態宣言が解除され、本社に出勤することとなったが、特に仕事はないので相変わらず一日雲の形を眺めるような仕事を続けることとなった。異動が決まったころは、中国転勤組よりもアメリカ組のほうが異動早いっしょと思っていたが、このころには全く逆転していた。一方、中国はじめいくつかの国とは人の行き来が発生しているというニュースもちらほら入ってきていた。無為に過ごし続けるのも無駄なので、他の事業所に行き、仕事について教わりつつ過ごした。6月の末には、HSK(中国語の国際テスト)を申し込み、8/1に受験する予定としていた。
6月の下旬に、中国大使館HPに「ビザ申請センター再開の件」というページがアップされていて、すわ!と思ったが、招聘状が必要との由。弊社のような小さい事業者には付与されまいと高をくくっていた。ところが7月上旬、招聘状が取れそうとのことで話が大きく変わることとなる。
③ビザが取れて出立がきまる
招聘状がとれそう!という話が耳に入り、ホンマかいなという間もなく、パスポートを代理店に送り、その他もろもろの書類を記入するという仕事をしていた。事情が事情なので、中国の総務担当者、国内の人事、ビザ代理店が入交り、よくわからないことになっていたが、ビザは7/20あたりに取れそうというのは固まった。
その次はいつ行くか、飛行機のチケットはどないやねんという段になる。調べたところ、なんとチケットのキャンセル待ちが1便当たり200-300人になっているらしい。しかもフライトは週に一回か二回しか飛んでいない。
つまり取れそうにないということねと理解した。
盆明けまでは日本で過ごせるだろうと思い、還暦を迎える母のお祝いをしようかなどとラブリーマイワイフ氏と話していた。
あきらめた我々と違い、(主に中国で)様々な力が作用した結果、チケットの入手ができちゃって、まさかの7/30に乗れることとなった。現住所は大阪で、赴任地は北京のはずなのに、成田から大連に飛ぶ便である。しかも2週間の隔離を受けなくてはいけないらしい。なにかと…え、マジ?
もはや中国語の勉強もやる気がなくなり、ひたすら隔離ブログを読みふけっていた。このあたりの記録を参考に、持ち物を選定していった。
フライトがきまってからは、章を分けることとする。