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日々の暮らしを見つめ直す場所
雨が振ったりやんだりの金曜日。
やっと雲の切れ間から陽が顔を出したのは、目的の宿に到着した夕暮れ頃だった。
色褪せた看板が付いたオレンジ色の雑居ビル。
本当にここだよね?と内心思いつつも、ホテルの案内が貼ってあるのが見えて一安心。右手すぐの階段を上り、雨でシワシワになった折りたたみ傘を踊り場の傘立てに置いた。
3階まで辿り着いて木製扉を開くと、そこは木のテーブルが6つほど配置されたラウンジだった。
席に座ると、白いシャツを着たオーナーさんが紙とペンを持ってきた。
宿泊時のお願い事が書かれた紙にサインすると、hotel aiaoiのチェックインが完了した。
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転職のタイミングで一人旅がしたいと思い立ち、鎌倉に宿を取ることにした。
東京から日帰りでも行ける場所にわざわざ宿泊することで、ちょっとした贅沢感を味わいたかったのだ。
観光地の鎌倉にはそれこそ宿泊施設なんてたくさんあるけれど、その中でたまたま或るホテルに目が止まった。
わたしたちは、この土地に住み、自分たちにとって大切にしたいことが変わり、ものごとを選ぶ基準も変わってゆきました。
そんな風に、わたしたちにそっと教えてくれた鎌倉の自然や町やひとの空気を感じてもらい、訪れる誰かにも同じように考える穏やかな時間ができればと、この場所をはじめました。
贅沢感などと言っておきながらも、転職前のひとり旅。せっかくなら何か考えたり、自分を見つめ直す機会にしたかった。
その為の場として、この宿は何より最適だった。
こうして私の鎌倉一人旅計画は、「hotel aiaoi」への宿泊がメインイベントとなったのだ。
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チェックインを済ませると、靴を脱いで廊下へ。オーナーさんが共有設備や部屋を丁寧に案内してくれた。
「本日ご用意させて頂いたお部屋は”Kumo”です」
扉を開けると、木材の優しい香りに包まれた。
部屋全体を照らす直接照明はなく、明かりは手元を照らす間接照明と洗面所のライトだけ。
剃刀や歯ブラシのようなアメニティは、「いつもは使い捨てしない」という理由から置いていない。
木の床は微かに凹凸があり波打っていて、裸足で過ごすには感触が最高に気持ち良い。
古材や古布、古道具が使われた素朴な部屋は、ホテルなのに非日常感はない。だけど、それでいてくつろぎを感じられる不思議な空間だった。
テレビや音楽がない部屋はひたすら静寂。だけど、例えばそれは防音室のような「無音」ではない。部屋の話し声が外に響きやすいからこそ、宿泊している人たちがお互いに気持ち良く配慮しあった上に作り出された静寂だった。
だからこそ、聞こえてくるのはパイプを流れる水音のように生活で生じる音だけ。そこに耳がいくのもまた、この静寂ゆえにだろう。
シャワーから出ると、私はフカフカの布団に潜り込んだ。
普段なかなか寝付けず耳にイヤホンを突っ込んで眠る日々が続いていたにも関わらず、この日は何もせずとも自然と深い眠りに導かれた。
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翌朝。まだ空が薄暗い。
目覚ましの1時間前に目が覚めた。
時計ではなく身体のタイミングで起きたからか、朝は苦手だけど眠気や疲労感などは全く感じなかった。
そのままボーッと「何もしない」時間を過ごしていると、陽が昇ってきた。ベッドから窓を見上げると、澄んだ空に真っ白な雲が浮かんでる。
8:00 am
ラウンジへ向かうと、暖かな朝日の差し込む窓際の席に案内された。
窓の外を覗くと、家々の向こうでキラキラと海が光っている。
「ご飯のお代わり、言ってくださいね」
本当に美味しいものって、口に入れたその瞬間にわかる。
特に、オーナーのご婦人のお父様が農薬や肥料を使わずに作られたというお米「ささしぐれ」が忘れられない。
お言葉に甘えて朝からご飯をお代わりしてしまった。
久しぶりにちゃんと朝食を食べた気がする。
朝から「お腹いっぱい」って、幸せなんだね。
のんびり食べていると、気づけば宿泊者は私一人だけになっていた。
ラウンジには台所の音と外から鳥のさえずりだけが小さく響く。昨日の朝は初霜が降ったそうだけど、今朝は外からの光だけで十分に暖かい。
この時間がずっと続けばいいのに...
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この日は昼の電車で東京へ戻らなければならず、チェックアウト時刻は12時だけど、10時頃には宿を立つことにした。
お礼の手紙を書き残し、荷物をまとめて部屋を出た。
「今朝は雨も上がって、良かったですね」
そう言って微笑むと、オーナーは穏やかに見送ってくれた。
階段を降りて踊り場の傘立てから取った折りたたみ傘は、いつの間にか滴もシワもなく丁寧に巻かれていた。
外に出ると空はすっかり快晴で、綺麗に畳まれた傘を眺めながら、なぜか私はこの宿に名残惜しさを感じた。
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一般のホテルと比べたら、この宿は「便利」でも「至れり尽せり」でもないだろう。
そういった点を考えると、ここはホテルだけど「非日常空間」ではなく、むしろ私たちが日々生活を送っている「家」という空間に限りなく近い。
ホテルとは別の意味での穏やかさや安らぎを感じたのは、そのせいかもしれない。
ただ、この宿と家との違いは確かに存在する。
ここに泊まると、自分にとって必要最低限のものを見極めることができる。
必要でないものが削ぎ落とされることで、本当に必要なものが見えてくるのだ。
そしてこの宿は、その「本当に必要なもの」にこそこだわり抜いた空間なのだ。
「暮らしの延長」にある宿で、日々の生活で大切にしたいことに気付かされた一人旅だった。
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(おまけ)
旅の断片を動画にしてみました。