試し読み2/3『あなたを愛しているつもりで、私は――。娘は発達障害でした』
不安な日常のなか、月末には通い始めることになる保育所の準備をするために、週末家族で市内のショッピングモールを訪ねた。大量の着替えに布団セット、フック付きのタオルなど、ここなら余すところなく揃えられた。休日昼時のフードコートはすごい人出だったが、うまく端の席を確保することができ、ようやく人心地がついた。うどんを二人前注文し七緒に取り分ける。人混みに疲れたのか七緒の目はすでにとろんとし始めていた。どうにか食べ終えてから眠ってくれたらとボーッとしている七緒を突いて食事を促す。先に食べ終わってしまった夫の誠司は空いた皿をまとめてお盆を重ねると、フードコートの柱に貼ってある看板に目をやった。
「荷物はもうあらかた揃ったんだっけ。せっかく来たんだし映画観て帰らない? 俺これ観たいんだよなぁ」
ハードなアクションが売りのファンタジー映画だ。子ども用のお椀を傾けて麺を集めてやりながら、幼児が内容もわからないのに暗い映画館でおとなしく二時間も座っていられるものかと胸の内で毒づく。何より子どもには刺激が強すぎる。
「子どもとじゃ無理よ。準備も買っただけで終わりじゃないし、早く帰りたいわ」
「だめか。うまく行けば寝ててくれそうだと思ったんだけど」
誠司のつまらなそうな横顔に申し訳ない気分になる。この頃誠司は仕事が慌ただしく遅い日が続いていた。せっかくの休日なのだ。所用をこなすだけで終わるのは虚しいだろう。だけど子どもは大人に合わせて付き合うことはできない。大人が子どもに合わせてやらなければ。独身の頃とは違うのだ。何事もなく無事に一日を終えることができてようやく本当に息がつける。とにかく早くマンションに帰りつきたかった。
「じゃ、シュークリームでも買って帰るか。まだかかるだろ? 俺、買ってくるわ」
誠司はお盆を持って立ち上がった。机に残った空の紙コップを重ね、通路の向かい側にあるゴミ箱に放り込む。その瞬間、七緒はあっと叫んで席を降り、ゴミ箱に貼りついた。
「うう、私のコップ!」
「ん、まだ飲みたかった? 注ごうか?」
ああ、これは地雷だ。誠司が地雷を踏んでしまった。
「違う。私のコップ! 私が捨てるコップ、出して!」
七緒がゴミ箱をバンと叩く。「はいはい、自分で捨てたかったのな」と誠司は隣にある給水器から新しいコップを取って差し出した。七緒はそれを思い切り床に叩きつける。お盆を持って近くを歩いていた客がチッと舌打ちした。
「これじゃないっ、私のコップ! ゴミ箱から出して」
「それはできないよ。悪かったって。七緒が捨てるつもりだったって知らなかったんだ。許してくれよ。シュークリーム買ってやるからさ」
誠司は持っていた盆を机に戻し、コップを拾い上げた。それから「よし、一緒に買いに行くか」と七緒を抱き上げる。七緒は身を捩って抵抗し、誠司の背中をバンバン叩いた。
「そんな話はしていないっ。私のコップを出しなさい!」
こうなると簡単には収まらない。さっさと退散するに限ると私は食べかけの食器も一緒にお盆に纏め、返却口へと急いだ。幸いうどん屋は目の前だ。戻ってくると、しつこく出して出してと叫ぶ七緒に、隣に腰掛けていたおばあさんが飴を差し出してくれていた。
「お嬢ちゃん。おばあちゃんがいいものあげるから、そんなに泣かないの。ね?」
「すみません、お騒がせして。ありがとうございま……」
「飴じゃないっ!」
誠司が礼を言うのを遮り、七緒はおばあさんの手を弾き飛ばした。飴がよそのテーブルのお椀の中に一直線に飛び込む。
「うわっ、マジか……」
誠司が一瞬絶句する。相手はさっき七緒を見て舌打ちしていた客だ。
「大変申し訳ありません、あの、お支払いします」
「離してっ、もう一回、もう一回、私のコップ、出して!」
「ちょっと七緒……」
頭を下げる誠司の腕の中で、七緒は主張を繰り返している。周囲の雰囲気を何も感じていないのだろうか。自分がしたことで相手がどんな思いをしているか見てわからないの? ……私には七緒が理解できない。
「甘やかし過ぎと違いますか。さっきからめちゃくちゃ行儀が悪いやないか。ここは食事をする場所やろが。こんな子見たことないぞ」
「すみません……ごめん夕子。七緒を連れて車に戻ってて」
誠司から七緒を手渡される。七緒はのけぞり体の上で暴れ回った。熱にうかされたような真っ赤な顔で叫ぶ。
「もう一回最初っからぁぁっ!」
まるで誘拐しているみたいだ。これだけ暴れられるとカートを操作するのも難しい。誠司に目配せし、置いて出ることにする。隣でオロオロと様子をうかがっているおばあさんに頭を下げる。
「親切にしていただいたのに、すみませんでした」
おばあさんは無言で首を振った。わたしは逃げるようにしてフードコートを出て、専門店街向こうのエレベーターホールへと急いだ。エレベーターを待っている人たちが、喧しく現れた私たちに好奇の眼差しを向ける。七緒は容赦なく私の髪を引っ掴み、腹を蹴りつけ、腕から逃れようともがいていた。
「あ、やっぱり七ちゃんだ。朝子ぉ、七ちゃんだよー」
聞き覚えのある声がして振り返ると、甥の詩音が声を張り上げていた。私たちを指差し、自分の母親を朝子などと呼び捨てにしている。後方から不機嫌そうに顔をしかめた妹の朝子と、姪の莉音が近づいてきた。そのさらに後ろを、義弟の吏樹さんが荷物いっぱいのカートを押して追従している。朝子は猫のようなツリ目をキューっと細めて手をかざし、よっと私に挨拶した。そして、すぐさまその手で詩音のおでこにデコピンを放つ。
「いってっ、何すんだよっ」
「おめー、店で走んなっていつも言ってんだろ。ばか」
朝子に便乗して詩音の姉の莉音が青いワンピースの腰に手を当ていばってみせる。
「そうだよ。詩音、うるさいし迷惑。そんなんじゃ幼稚園になんか行けないからね」
偉そうな振る舞いといい、きつい口調といい、まるきり朝子のコピーだ。詩音は朝子そっくりな猫目をさらに釣り上げて、鼻息荒く反論した。
「何言っちゃってんの。姉ちゃんが行けんのに、この俺が行けないわけねーじゃん」
七緒と同い年の詩音は、この春ひとつ上の莉音の通う幼稚園に入園するのだ。追いついてきた吏樹さんが、「静かにしろ」と熊のように分厚い手のひらで詩音の頭を押さえつけた。詩音は思い切り反発する。
「なんで俺だけ? 七ちゃんのがでっけー声で泣いてんじゃん。まぁ? 大声なら俺も負けねーけどっ」
「静かにしろって言ってんの」
父親に重ねて注意され、詩音がふくれる。朝子が呆れた顔をする。
「なんで俺だけって、詩音が先々行って叫ぶからだろ。まったく。……ところで姉ちゃん、今日は七ちゃんと二人?」
「ううん、誠司も一緒なんだけど……」
朝子と話そうとすると、七緒は声を張り上げた。
「うわああ、もう一回、戻って!」
「こんなわけで、七緒を連れて先に車に戻ってるところ」
説明するよりよっぽど状況をよく表している。朝子は七緒が泣くのに構わず話し続けた。
「なるほど、そら大変だ。って言うか、姉ちゃん超久しぶりじゃね? いつもどこで買い物してんの。全然会わないよね」
莉音が近寄ってきて七緒のお尻をとんとんし、泣かないでと宥めている。あまり近寄ると顔を蹴っ飛ばさないか心配だ。背中の方までよじ登る七緒を抱き直す。
「うちは駅前商店街が近いから。普段はそっちで済ませてるの」
「こっちのが安いし、車で来られて便利なのに。実家にいた時も御用達だったじゃん」
朝子の言う通り、近辺でこのショッピングモールを利用しない人はほとんどいない。隣町に住む実家の両親も日常的に使っているはずだ。私も七緒の保育所の準備をするのにここしか浮かばなかった。不自然といえば不自然かもしれない。
「うん。……でも混んでるのが億劫で」
「ふーん。あ、そうだ。七ちゃんってお古着てくれる人? サイズアウトした莉音の服が大量にあんだけどさ、よかったら今度うちに……」
次々に変わる朝子の話に耳を傾けていると、腕の中の七緒が両手を離しのけぞった。
「もう一回、もう一回、戻ってぇ!」
あぶない。抱え直そうと身を乗り出すと、七緒は勢いよく私の顔に拳を振り下ろした。火花が散り、視界が真っ暗になる。
「うわっ。ちょっと、姉ちゃん、大丈夫?」
痛みに思わずしゃがみ込む。七緒は私の腕から抜け出し、猛スピードで来た道を駆け戻った。
「あっ、七ちゃんが逃げたっ」
二人の子どもたちが同時に叫び声をあげ、後を追う。
「おいこら、行くなよ!」
飛び出す子どもたちを捕まえようと吏樹さんが手を伸ばすが、大きな体は人混みに遮られ子どもたちを捕まえることはできない。人混みでは子どもの方が速い。朝子が再び大きく息をつく。
「まったく。あのばかどもは!」
「朝子、ごめん」
「姉ちゃんのせいじゃないよ。あいつら、店は自分たちの庭じゃねーって、何回言ってもわかんなくてさ」
幸い子どもたちの居場所はすぐにわかった。角を曲がろうとしたところで誠司に捕まったのだ。七緒を抱いた誠司が手を振っているのを、吏樹さんが見つけてくれた。
「すみません、お騒がせして。莉音ちゃん、カートをありがとう」
誠司に感謝され、莉音が得意顔で戻ってくる。莉音の背丈じゃまっすぐ前が見えないんじゃないだろうか。布団や着替えが山積みのカートをよく運べたものだ。誠司はさらに莉音を持ち上げる。
「みんなの居場所も莉音ちゃんが教えてくれたんだよな」
莉音ばかりが褒められて悔しいのか、詩音は口を尖らせた。
「なんで姉ちゃんばっかり。俺だって」
調子に乗った莉音は詩音を腐す。
「あんたはただ走ってただけじゃん」
「はは。詩音くんも七緒を心配してくれてありがとう」
とってつけたことを言い誠司が頭をかく。長身で肩周りの大きな吏樹さんの隣に並ぶと、一般より小柄でなで肩の誠司はまるで中高生の子どもみたいだ。誠司の作った和やかな雰囲気を打ち消し、吏樹さんは無言で莉音からカートを取り上げた。詩音と一緒にくるりと後ろを振り返らせ厳しい口調で咎める。
「いやぁ、よくない。二人とも。見てみろ。杖ついてる人もいるし、お前らよりずっと小さい子だっているよな。走ったら危ないだろうが。店で走んなって何回言われてる?」
二人は、慌てて互いに責任をなすりつけ合った。
「だって、姉ちゃんがさ」
「なんで人のせいにすんの? 詩音が先に猛ダッシュしたくせに」
吏樹さんは二人の背中に手を当てたまま一歩も譲らない。
「それは、人に怪我をさせていい理由になるのか? お前らだって無事では済まないぞ」
「でも、七ちゃんが行っちゃったんだぜ?」
詩音の言い訳を打ち消すように七緒が声を張り上げる。
「戻りなさいっ!」
呆れた。この状況でまだコップのことにこだわっていられるのか。ちょうど同時に二台のエレベーターが開き、人がなだれ込む。
「いいから。ほらもう、あんたたちも乗んな」
どちらも昇りだ。車は屋上駐車場に駐めてあるが、一緒に昇るにはスペースがない。朝子はさっさと左のエレベーターに乗り込み、私たちに手を振った。七ちゃんバイバイ、と子どもたちが後に続く。もう一つのエレベーターにカートをねじ込みながら誠司が呼ぶ。
「夕子も早く」
扉が閉まると七緒は、この世の終わりであるかのような声で絶叫した。
「うわああ、戻って、戻ってええ!」
「……すみません」
にわかに喧しくなったエレベーターで誰に向かってでもなく頭を下げ、祈るように目を閉じた。
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