11/22 雑記 考えのあれこれ2
昨日の記事の続きです。
どの辺が? ってなるかもですが続きです。
えこひいきされている子供が憎まれる。
特別な配慮が必要な子供がずるいと言われる。
ずるいと言い、憎む側の子供の感情は嫉妬だろう。
嫉妬の感情が教えてくれるのは「私の望み」だ。
つまりその子の望みは「私だって特別に扱われたい」なのに私には得られない。
この現実を自分で認め受け止めることができないから、もがく。
もがいて行動化する。
そのうちの一つが、ひいきや配慮をする側ではなくされる側を憎むという行動だ。
本来、その望みの矛先は「大人」だ。大人に特別に扱ってほしい。なのにそちらには文句を言う勇気がない。
勇気が出ない理由は恐怖があるからだろう。単に大人が怖いというより力のある人間、愛着の対象に失望される恐怖。嫌われる恐怖。
大人、特に親や教師のように複数の子供の前に立つ大人は、このような子供の恐怖を理解して受け止め、本当の気持ちが伝えられるように支えてやらないといけない。
だけれど、大抵はそこは無視され、嫉妬の矛先を「与えられる側の子供」に向けたことを咎めて終わってしまう。ともすれば辱めてしまう。
よくない行動の責任を取るのは当然だ。
でもそれはそれとして、大人にはその子がそんな行動に至った気持ちにも目を向けてほしいと思う。
受け止めて、望みを聞き取ってあげられたら。
正しい矛先に望みを届けられて初めて、その子は満たされ、または正しく絶望し、本当に配慮が与えられる側の子供の立場を思いやることができるようになる。
このやり方はどの人間関係でも同じだよね。
夫婦でも、親子でも、先生と保護者間でも、いじめっ子といじめられっ子でも。
この例では意地悪した側とされた側ではなくて、した側とその原因となった大人だから、聞き取られる側にも聞いてほしい気持ちがあっただろうし、聞き取る側の感情的反応が引き出されにくいから、やり良かったけど。
当事者間となるとハードルが上がる。
でも、もし本当に誰かに考えを変えて私の望みを満たしてほしいと思うのなら、勇気を持つしかない。
勇気を出して望みを伝えた後は、相手の反応、行動の理由に目を向け、その気持ちを思いやることから始めなければならないと思うんだよ。
一旦自分の望みを脇に置いて、相手の事情を理解しようと努めることは、自分の望みを理解してもらうために必要なこと。
その時例えば「私だって特別に扱われたい」なんて自分の望みを言語化できる子供はほとんどいないように、大概人は自分で自分のしていることも、怒りの矛先が間違っていることも理解していない。
理解したとしても、少しでも非難されると恐怖したら否認や正当化に必死になるだろう。
だから受け止めるのにはうんと時間がかかるかもしれない。
時に怒りをぶつけられたり、話をはぐらかされたり、とても思いやりのない発言を聞くことになるかもしれない。
それでもそれは一体相手のどんな事情からどんな感情から出てきたものか見つめていく。人間性の問題にして人格否定してはいけない。
言い返したり、非難したりせずに理解の材料をどんどん引き出していく。相手をケアするためじゃない。戦う相手を知るために。
聞いて聞いてデータを集めて、それから自分の望みを確かにして、伝え続ける。わかるまで。
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本来のフェミニズムは、人々が選挙権を得るために戦ったように、必要を得るための戦いなのだと私は理解している。
だからこのように強かに時間をかけてやらなくてはいけない。
なのに自分の感情を観察することが難しくなって、相手の言葉が聞けなくなる。攻撃して隙を与えてしまう。そしてそのように剣を交えることが戦いだと感じてしまう。
そうして相手の防衛をますます強めて、理解の糸口を遠ざけてしまう。
男は酷いものなのだと、人間性、人格否定して傷つける。
フェミニズムと聞くだけで忌避的な感情を抱かせるのでは目的を達することはできないよ。
男を負かせたり、思い知らせたり、憎しみをぶつけることをすれば、より一層忌避感を強めてしまう。
抵抗を緩めて、話を聞いてもらいたいんじゃなかったの? って思う。
どうせ聞いてくれないと開き直っているのだとしたら、それはフェミニズムではなくて、むしろフェミニズムの実現を遠ざけている。
自分自身が。
私はフェミニズムは進めなければならないと感じている。
それは私が女性として抑圧された悲しみを持っているというのも幾分かはあるけど、それよりも子供としての私が強く望んでいる。
人は自分の能力や努力と関わりのない場所で何かを諦め、押し込められたなら無力感を持つ。そしてその感情をどこかで感じまいと抑圧してしまう。
抑圧された感情のために目の前の子供が見えなくなる。
あなたにはそんな思いはさせたくなくてと躍起になったり、反対にあなたにもどうせそんな時が来るのだからとディスカウントしたり、自分の思いでいっぱいになって子供の感情が見えず自分の思いを押しつけて子だもの人生をコントロールしてしまう。
ほとんど、良かれと思って。あなたのためにと信じきって。
昨日の日記で書いた『人は変われる』にあったように、感情が十全に感じられない親は子供の感情を受け止めてあげられない。
もし私の母親が自由だったら、きっと私は痛みを感じなくて済んだんじゃないか。
もし私の父親が抑圧されていなければ、私は苦しまなくて済んだんじゃないか。と思わずにはいられないのだ。
女の子だから大学に行く必要はない、女の子だから地元でいなさい、女の子だから手伝いをして、女の子なのにでしゃばるな。従ったかはともかく、女の子だから、女の子なのにをたくさん浴びて育ってはきた。
同様に弟は男のくせにおしゃべりだ、男なんだから大学くらい、男なんだから前に立って、跡取りだろうなどという言葉を浴びて、自分自身を見てもらえなかっただろう。
だから私はフェミニズムは実現すべきだと思っているし、男性問題も解決しなければならないと感じている。
そういう思いから親になる人たちには自由であってもらいたいのだ。
それは毒親とは何かを考え続けている、子供としての私の強い思いだ。
めちゃ遅くなった!
深夜テンションじゃないかと心配しつつ、投稿しておやすみなさい