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試し読み1/3『あなたを愛しているつもりで、私は――。娘は発達障害でした』


プロローグ 空を仰ぐ


「五、六、七、八……」

 駅の改札口を出て、私は娘の七緒と段数をカウントしながら階段を降りていた。ぎゅっと指を掴む小さな手はしっとりと汗ばんでいる。注意深く一歩一歩踏みしめるようにしていたはずなのに、十五を数える声と同時に七緒は一段足を滑らせた。手を繋いでいたとはいえ、七緒はまだ自分で手すりを掴めない。かわいそうに、ずいぶんヒヤッとしたことだろう。びっくりしたねと声をかけると七緒はぎゅっと眉を寄せ不満の声を漏らした。

「もう一回最初っから」
「ごめんごめん、怖かったよね」

 抱き上げると七緒はうーっと唸り、身をのけぞらせて叫ぶ。

「もう一回最初っから、やり直してっ!」

 これから一歳半健診へ向かおうとする、まだ歩くこともおぼつかなくみえる小さな女の子の口から出てくるとは思えない言葉だ。道ゆく人がぎょっとした顔で振り返る。どこで覚えたんだろう。私が無意識に使ってきたんだろうか。暴れて腕から溢れそうな七緒をぎゅっと抱きしめる。

「大丈夫だよ。こんなに降りてきたんだから」
「もう一回最初っからぁ」

 宥めると七緒は却って気持ちを高ぶらせ、奇声を上げた。一度言い出すと聞かない。

「あと二段でおしまいなのに……」

 諦めて階段を上がる。健診会場である保健センター行きのバスが出るまでにはまだ余裕がある。一番上まで戻ると七緒は命綱でも握るようにぎゅうっと私の指を掴み、数を数えながら階段を降り始めた。
 ああ、失敗したのが階段でよかった。いくらでもやり直せる。取り返しがつく。七緒の怒りを治めることができるのだから。今度は最後まで失敗させまいと気を張りながら階段を降りる。私は七緒に失敗させることを強く恐れていた。

 保健センターは地区の三月生まれがいっぺんに集められて騒然となっていた。受付で番号札を受け取り待合室へ向かう。可動式の壁が取り払われて作られた簡易の待合室には、プラスチックの衣装ケースに詰められたぬいぐるみや折りたたみ式のすべり台、型はめ遊具や布製のボール、絵本などが置いてあった。おもちゃを手にとって誘ってみるも、七緒はじっと固まって入り口の電光掲示板を見つめたきりだ。

「七緒の順番はまだ十も先よ。遊んで待っていよう」

 声をかけるも七緒は掲示板の数字に見入ったまま見向きもしない。七緒は数字が好きだ。乳児の頃からよく時計の文字盤に見入っていた。泣いている時は、ほら見てごらんアンパンマンだねとでもいうように、もうすぐ針が十二を指すよなんて気をそらし機嫌をとったものだ。私はたわむれに鞄から札を出して七緒の眼前に差し出してみた。

「六、九。六十九だね」

 読み上げてやると七緒は口をアヒルみたいにぽかんと開いて札を見つめた。夢中になると七緒は口を開けたままになるのだ。ちょうどいいタイミングで掲示板がぽんと呼び出し音を鳴らし、番号を点滅させる。わかっているわけはないと思いながら、これで満足して待っていてくれるならと掲示板の数字も読み上げる。

「あ、いま六十になった。一、二、三と九まで数えたら七緒の番。呼ばれたら教えてあげるから遊んで待とう。ボールで遊ぶ? それとも絵本がいい?」

 何かないかと待合室を見渡すと見知った顔が目に入った。たまに参加する児童館の乳幼児クラブで見かけたことがあるお母さんだ。顔は覚えているけど名前は知らないという程度の遠い関係だが、あちらもわかってくれたらしく目が合うと笑顔で寄ってきてくれた。

「こんにちは。混んでますよね。うちの子もう飽きちゃって、限界ですよ」
 いちごのゴムで髪をおさげにしたぱっちりおめめの女の子が、ママの白いプリーツスカートの後ろから顔を覗かせていた。ほとんどやりとりしたことがない私たちのことを警戒しているみたいだ。
「三月生まれだったんですね。背も高いし、もっと上だと思ってました」
「見た目はねー。しっかりして見えるでしょ。でもまだママしか言えないのよ」

 ママが自分そっちのけで話をしていると思ったのか、女の子はママのスカートをぎゅうぎゅう引いて主張した。綺麗なプリーツが台無しだ。

「ママ、ママ、ママァ!」
「やだやめて。……ずっとこうなの。いいなあ、おとなしく待てて羨ましい」

 七緒はこちらに顔を向けることもなく、電光掲示板の周りを赤い光が時計回りに回るのをじっと目で追っている。

「マーマァ!」

 女の子の声がきーっと裏返る。

「わかった。わかったから。んーじゃあ、もう一回お人形遊びする? せっかくだし、おともだちと一緒に遊ぼうよ」
「七緒、よかったね。一緒にお人形遊びしようって」

 声をかけると同時に呼び出し音が鳴り番号が点滅した。七緒が掲示板に反応して声を上げると、女の子のママは七緒の関心に寄り添った。

「ピカピカして綺麗だね。あーちゃんも見てごら……わっ、なにやってんの」

 ママが構ってくれないことに我慢ならなくなったあーちゃんは、ボールを追って目の前に現れた男の子の背中を両手でどんと突き飛ばしていた。よちよち歩きの男の子は潰れるようにして前のめりに倒れ、わぁっと泣き出す。男の子のママがさっと駆け寄り子どもを胸に抱き上げた。あーちゃんのママが頭を下げ、娘の肩を揺する。

「すみません。あーちゃん、どうしてそんな乱暴するの。ごめんしなさい」
「マーマァァァ」

 あーちゃんは号泣して床に突っ伏した。男の子のママが息子をあやしながら立ち去るとあーちゃんのママは娘を抱き上げ、もう眠いのかなあと待合室の外へ出てしまった。ママが察していたとおりあーちゃんは待つことにもう限界だったんだろう。だからどうしてもママの気を引いてケアしてもらいたかった。

「行っちゃったね」

 声をかけるも七緒は彼女を見てもいなかった。待合室では待つのに飽きた子どもたちが、あちらこちらで母親に自分の機嫌をとらせようとしていた。怖じて抱っこから降りようとしない子。おもちゃを投げて膨れている子。パンフレットを持ってきてはどうぞを繰り返す子。脱走しようとして振り返る子。見て、私の相手をして、ママ、ママ、ママ。親の関心をひこうとする子と親の濃密な思いが行き交う。そんな中七緒は周囲の喧騒など意に介さず、母親などいてもいなくても構わないかのように一心に掲示板を見つめていた。

 七緒が欲しているのは、明確な見通しなんだ。

 コインを入れてボタンを押せばジュースが出る、自販機のようなわかりやすい法則。六十九の数字が点滅した途端、七緒は番号札を手に一人で受付に走り出した。親より先に受付に現れた七緒を、職員はなんて賢い子だろうと褒めた。初対面なのに怖じることもなく話しかけては得意げにしている。なぜ、いつまでここにいなくてはいけないか理解できず、退屈を訴える子どもたちの中で、七緒だけが法則をわかっていた。

 七緒は賢い。そして人見知りすることなく誰にでも話しかける明るい子だ。月齢の割に言葉をたくさん知っているし、健診では何も問題を指摘されなかった。けれど私は不安だった。七緒は待合室の子どもたちとは何かが違う。根本的に違っている。そう思えて仕方がないのだ。七緒みたいな子どもはどこにもいない。けれど、保健師に順調ですねと微笑まれると何も言えなかった。どう説明していいかわからない違和感を胸に飲み込み、保健センターを後にする。

 外は快晴。空に雲が霞んで薄水色をしている。薄っすらと白い昼の月の姿を見つけ、七緒に教えてやろうと指を差しかけて思いとどまる。きっと七緒は月を見つけられない。恐ろしいくらい察しが悪く、指を差してやってもそっちを見ないのだ。先日も野良猫がいると教えてやったが頓珍漢な方を見て発見できなかった。猫が立ち去った後まで見せろ見せろと泣きじゃくるので、こんなに辛い思いをさせるならもう見つけても教えるまいと思った。昼の月なんかわかりっこない。あっちだよと指差した時どこを見ればいいかなんか教わらなくても自然と察するものだと思っていたけれど……。私は娘とこんな些細な喜びさえ分かち合うことができない。繋がれない。待合室にいたママたちが、あーちゃんのママが羨ましかった。児童館や公園で四六時中離してくれないと愚痴を言うママのどこか誇らしげな顔を見るのが嫌だった。あーちゃんが唯一ママの関心だけを求めたように、私も七緒に求められ繋がっていると感じたい。多分私は寂しいのだ。七緒といるのが寂しい。こうしてそばにいる七緒がちっとも寂しがっていないようなのが何より寂しかった。


 三年の育休を経て教職に復帰する日が近づくと、不安はさらに膨らんだ。七緒の反抗期はとても激しいものだったからだ。七緒の要求はおやつが欲しくてスーパーのおやつコーナーでひっくり返るとか、うまくスプーンが使えないのにイライラして投げてしまうとか、トイレに間に合わなかったことが恥ずかしくて泣きじゃくるといったような感情的に理解できるものではなかった。些細に思えることで急にパニックを起こすのだ。
 砂場に水の入ったバケツを誤って引っくり返すと、今こぼして砂にしみたあの水をもとに戻せなどと無茶なことを求め、周囲に砂を撒き散らした。水を汲み直すといった現実的な対処では気に入らず、そうじゃない、もう一回やり直してと大声で怒鳴るのだ。予想外の出来事にショックを受けているのはわかるが、何をしても宥められないことに途方に暮れた。周囲の親子もびっくりして引いてしまう。七緒は一度パニックを起こすと強くこだわり、どんな言葉も届かなくなった。

 七緒の要求は失敗して辛い気持ちを慰められることではなく、この間違った事態をなかったことにしてほしいということなんだろうか。でもそれは決して実現しない。時は巻き戻らない。失敗はなかったことにはならない。割れたガラスが元には戻らないように、取り返しのつかないことはある。自明のように思えるのに七緒にはどうしても許せないらしく、何時間もの間ずっとこだわり続けた。

 小さな二歳児相手に私はほとんど発狂寸前になった。いい加減にわかって、できないものはできないのと叫び、痣になるほど自分の腿を殴りつけた。ひたすら要求し続ける七緒を振り払い、部屋に引きこもっては自分の腕に噛みついて声にできない感情を逃がす、狂ったような日々だった。

 相手はこんなに小さい子どもじゃないか。二歳児の癇癪も解消してやれないなんて母親失格だ。誰もがみんなこの時期を乗り越えていくんだ。母親なら子どもの気持ちくらい受け止めてやらなきゃ。私には自分の娘が何を感じ、考えているのかわからない。あんなに泣いているのにどうしてやることもできない。助けになれない。こんな私に母親なんて務まりっこないんだ。


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