リクルートを作った江副浩正という男
「銀の匙を加えて生まれてきた人たちに負けたくない」
僕がここまで強い執着心を持って発信を続けているエネルギーの源泉は、妬み僻みだ。俺はこのままじゃ終われない、何としてものし上がってやる。高校、大学と進み階級社会を目の当たりにしてきた僕は、いつしかそうしたブラックなガソリンをグツグツと燃やすようになった。
しかし高校にも大学にも、そうしたブラックなガソリンを燃やしている人には出会えなかった。そんなとき、僕は書籍の中に師を見出した。それは土佐藩を脱藩し近代日本の幕開けに貢献した坂本龍馬であったり、岐阜の田舎から状況し都会の上流階級に圧倒されながら独自の安売り哲学で販路を切り開き日本を代表するディスカウントストア・ドンキホーテを創業した安田隆夫であったり、「僕には時間がない」と過酷なトレーニングに魂を燃やし、東京大学理科II類中退・東京医科歯科大医学部中退の末、ボディビルダーになり、常軌を逸した減量の末”餓死”したマッスル北村であった。彼らの生き様はまさに僕の理想だった。最強になるという野望のために、狂ったように成功に執着する。その執着の強さ、泥臭さこそが、僕の憧れた生き方だった。
そしてまた1人、師を見つけた。それが「起業の天才!」に描かれる、8兆円企業リクルートをつくった男、東大が生んだ戦後最大の起業家・江副浩正だ。
この記事を読んでいる人でリクルートを知らない人は誰もいないと思う。ゆりかごから墓場までを合言葉に、タウンワークやリクナビ、リクナビNEXTでアルバイトから就活、転職市場を囲い込み、SUUMOでは不動産市場を席巻している。ゼクシィは結婚から子育てまで、スタディサプリでは受験を、そしてホットペッパーではグルメから美容まですっぽり網羅している。まさに現代人の一生に寄り添うビジネスだ。2012年に1000億円で買収したアメリカの求人サイト「Indeed」は爆発的な成長を遂げ、2019年3月期には連結売上高2兆3000億円のうち1兆円を海外で稼いだ。日本のみならず海外でも存在感を発揮する一大企業をつくった男、それが江副浩正だ。
1936年に愛媛で生まれた江副は、その後大阪に移り、甲南中学・高等学校に進学した。当時、甲南に通う生徒は高級住宅地の芦屋に邸宅を持つ資産家の子どもなど上流家庭の人間が大半で、数学教師の息子に過ぎない江副は少数派の部類だった。当時の江副は勉強でもスポーツでも目立った所は一つもなく、同級生の記憶にはほとんど残っていなかったそうだ。
しかしそんな平凡な学生時代にも江副の思想をよく表したエピソードが一つある。江副は周りが医学部受験をするなか東大を志望していた。そして試験を有利に進めるため、英語より受験生が少なく問題も簡単だったドイツ語をあえて選択したのだ。
そして目論見通り東大に合格した江副は株式会社大学広告を設立する。これが後のリクルートだ。詳しくは「起業の天才」を読んでいただきたいが、江副はこの大学広告で「情報をカネに変える」という前例のないビジネスを生み出した。当時の就職活動は今のように学生が自由に企業に応募するというスタイルではなく、ほとんどが親族や部活の縁故採用で、後々ミスマッチが発生し、採用する側もされる側もお互いが損をしていた。そこで江副は考えた。「企業がもっといろんな学生にアプローチできるよう広告が打てる場を提供すれば、お金になるんじゃないか。」
江副が大学4年生の1958年6月、丸紅飯田株式会社の就職説明会の知らせが東大の学内掲示板に貼られていた。「これだ!」と思った江副は、すぐに東京支店の人事課を訪ね、「東大新聞に説明会の告知広告を掲載していただけないか」と営業し、広告を取った。
そして同年6月18日号の東大新聞に江副が初めて取ってきた突き出し広告が載った。わずか数センチ四方に満たないこの広告こそが、8兆円企業・リクルートの全ての始まりだった。
僕の好きな江副のエピソードに、「虚業」の話がある。
大学広告での成功を皮切りに急激なスピードで成長したリクルートは、1983年に売上1000億円を突破した。そんなある日、江副は当時の経団連会長・稲山嘉寛に呼び出される。日本経済界のトップに、まだ駆け出しのベンチャーの社長に過ぎない江副が呼ばれた理由は、製造業が衰退しつつある当時、情報をカネに変えるリクルートを経団連に入れるかどうかのテストのためだった。
銀行家の3代目に生まれた稲山は、親からの仕送りをお座敷遊びに注ぎ込むなど派手な学生時代を送った。学業はダメだったが新設のため無試験だった東大に滑り込み、就職活動でも行きたい企業に尽く落ちた末、親族のコネで商工省製鉄所に入社した。親のコネで生きてきた稲山と、知恵を働かしその身ひとつで這い上がってきた江副で話があるはずがない。稲山は江副に「モノづくりをしない、きみのやっていることは虚業だね」と告げたそうだ。
稲山との会合を終えた江副は会社に帰るなり、当時もっとも信頼を寄せていた社員の竹原にこう漏らした。
「竹ちゃん、うちは虚業だって」
その日江副は、窓の外を見ながら「虚業、虚業......」とひたすら呟いていた。経団連会長から向けられた悪意を嗅ぎ取ったに違いない。
しかしそれで腐る江副ではなかった。その後、求人広告のみならず、不動産、スキーリゾート建設など幅広い事業に手を広げ、リクルートはどんどん規模を拡大していった。「バカにされてたまるか」身一つで成り上がってきた江副には、結果が全てだった。例え虚業と言われようと、情報を求める人がいて、彼らが求めるものをしっかり提供すれば、それは立派な商売になる。情報の価値を、江副は誰よりも理解していた。
いつの時代も、出る杭は叩かれる。江副はまさに「出過ぎた杭」だった。そして1988年に発覚したリクルート事件により、江副は経営者としての人生を絶たれた。
1988年といえば僕はまだ生まれていないし、この記事を読んでる方の多くもそうだろう。あのリクルートが日本を揺るがすほどの大事件を過去に起こしたことを覚えていない人も多い。しかし本書を読めば、いかに当時の日本が旧来のモノづくりに固執し、情報という形ないもので金儲けをした江副を「ずるい」とこき下ろしたかが分かる。
その一方で、江副の野心が度を超えたのも事実だ。経済界で確固たる地位を獲得した江副が次に手を伸ばしたのが政治だった。各界の要人との会食に顔を出し、未公開株を配りまくる。当時、未公開株を買ってもらうことはグレーゾーンだった。配ると言ってもタダであげるわけじゃない。お金を払って買ってもらうのだ。株なので当然値が下がって損をすることもある。しかし当時はバブルに真っ只中。イケイケドンドンのなか、リクルート子会社の株が値を下げることはあり得なかった。未公開株の行き過ぎた取引は世間に知られるところとなり、江副は壮絶なバッシングを受けた。そして加熱する世論を受け、検察が関係者300名近くから事情聴取をする大捜査にまで発展した末、多数の政治家と官僚が実刑判決を受けた。
江副は2003年3月、東京地裁にて懲役3年執行猶予5年の有罪判決を受けた。そして10年後の2月8日、肺炎のため亡くなる。76歳だった。
「おまえら、もっといかがわしくなれ!」
タイトルに書いたこの言葉は、リクルート事件やバブルの崩壊を受け業績が悪化したリクルートがダイエーの傘下に入った際、ダイエー創業者の中内功がリクルート社員に向けて放った言葉だ。
ダイエー傘下に入り、これからどうなるのか不安に駆られていたリクルート社員1000人は、中内の言葉に立ち上がり、「うおーー!」と拳を突き上げた。
僕は江副や、中内の考え方が好きだ。世の中のチャンスというものは、黄色信号を猛スピードで渡ることで見つかる。グレーゾーン。倫理的にアウトでも、法律的にセーフだったらOK。誰もやらない、やろうとしないことにこそ勝機がある。いかがわしく、貪欲に、したたかに行動を継続できる人は滅多にいない。みんな綺麗に、真っ当な方法で戦おうとするからだ。でもその道は大混雑で、赤信号が灯るたびに立ち止まらなくちゃいけない。
赤信号を渡ると捕まるけれど、黄色信号ならセーフ。猛スピードでぶっ放す。渡り続ける。捕まりかけたら考える。そんな思想を体現した男が江副だったと、僕はこの本を読んで感じた。
いかがわしさも、妬み僻みも、渇きも全部ガソリンにして、ぶっ飛ばして行こう。それでは素敵な1日を。
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