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人はジャッジしちゃうもの。それも、わたしらしさ🍀

私たちは、毎日の中で当たり前のようにジャッジをしています。
「今日は何を着よう?」「何を食べよう?」そんな日常的な選択もジャッジ。ジャッジがあるから「私」という個性が生まれ、自分らしさを楽しむことができます。

でも、自分を苦しめる素にもなります。
「また失敗しちゃった」「こんな自分じゃダメだ」と厳しい声を自分に向けていることってありませんか?
先日、義母の自分自身に対する厳しく、強いジャッジを感じました。

義母が牛乳を床にこぼしまったというので、片付けに行きました。
わたしが床を拭いている間中、義母はずっと「また私ったら」「迷惑ばかりかけてる」って、自分を責め続けていました。
「仕方ないよ、誰だって手が滑ることはあるし、そういう時もあるよ。」って伝えましたが、義母にはそう思えないようで、体が以前のように思うようにならない自分を責め続けるのでした。

こんなふうに厳しい声に振り回されると、自分の中で無限にジャッジが繰り返されて「無限ジャッジループ」にハマります。

スピリチュアルの世界でよく耳にする「ノージャッジ」という言葉には、
「ジャッジを手放しましょう」「ありのままを受け入れましょう」という教えが込められています。でも、それがかえって「ジャッジしてはいけない」と考えすぎてしまい、また別のループをを生むことがあります。
たとえば、ジャッジする自分に気付き、その自分をまたジャッジする‥。これってあるあるじゃないかなって思うんです。ジャッジを悪者だと思って排除しようとする感じ‥。
でも、ジャッジは、私たちが人間として自然に出てくる反応のひとつだし、なくならないんですよね。だから「あるな〜」って眺めることができればOKなんですね。

ジャッジは私たちが自分らしさを知るためのツールでもあり、大切なサイン。でもわたしたちが苦しむ素にもなる‥。それはどうしてか?

苦しみになるのは、ジャッジに「厳しい声」を重ねたり、その声をそのまま採用してしまうこと。信じてしまうことだと思います。
例えば、義母の「私は迷惑ばかりかけてる」という声。それ自体はただの反応なんです。でも、それを「そうだ、本当に私は迷惑だ」と信じてしまうことで、心の苦しみがどんどん深くなります。だから、その声に深刻に取り合わないことが大切なんです。

ジャッジが湧いてきたときは、「そうきたか」「また来たね」と軽く声をかける感じでいいです。それだけで、一歩離れることができます、その声が軽くなります。深刻にならずに済みます。
「おお、またわたしの思考エネルギーが騒いでるな」って眺めてみるとか
ジョジョ風に「やれやれだぜ。またお前か」(※ジョジョネタですが)とか言ってみたり、ジャッジを軽くあしらってみるのもいいかもしれませんね。

ジャッジは、私たちが人間だから生まれるもの。人なんだから、いろんな感情や思考が生まれるのは当たり前。そこに良い、悪い、のジャッジを下すから苦しくなります。苦しみではなく、「私らしさ」「わたしという個の味わい」だってクスッと笑いましょう。ただ気づいて、あるね。って受け入れることで、もっと楽に自分を生きられるようになります。

厳しい声として聞こえるジャッジは気づきやすいですが、
ふと「このままでいいのかな‥。」「もっと頑張らなきゃ‥。」というモヤっとした感覚、曖昧でふんわりした感じ、そんなふうに、小さなジャッジが微かな感覚として現れていることもあります。
だから、自分に優しく意識を向けてみてください。耳を傾けてみてください。

ジャッジは人であることの特権。
厳しい声が出てきたら「わたしらしいジャッジだな。」って
わたしの味わいを見つけて楽しめたらいいですね。




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