「清潔感」について思うこと
このアカウントは僕にとって、推し活を通じて感じたモヤモヤや疑問、課題などを上手く消化するための――書いて投稿することによって供養するための――そんな場所となりつつあって、
この記事も、そういう類のものになります。
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今回のキーワードは清潔感で、よく恋愛の話題に出てくる、女性が男性に求めるものとしての清潔感で、
具体的には、髪型がその人に似合っていることや、髪の手入れ・爪の手入れが行き届いている様子、ひげ(場合によってはその他の体毛も)が伸びていない・無いこと、皮膚の状態が良好であるさま、適切な服装を身に着けていること、といったものの総体を示すようで、実際に清潔であるかどうかとは必ずしも一致しないらしい。
はっきり言うと、僕は他人からそれらを求められることに抵抗がある。
なので、推しが配信で「清潔感がある人が好き」などと宣った日には、わりとマジで凹むし、自己同一性の危機に陥る。
推しは神なので、推しの考えと自分の考えが一致しないと本当にしんどい。
飲み物の好みが違うくらいなら、数分が経って、推しが次の話題に移ってくれれば忘れられる程度だけれど、価値観が違うとなってくると、眠れなくなったり、次の日の朝まで引きずったり、どころか、一週間以上、心の平穏を取り戻せないこともある。
清潔感に関しては、配信で度々話題に上がるし、わりと、自分の価値観の深い部分に該当する気がする――ここらでちゃんと「供養」しておかないと明日から生きてはいけない話題である気がしてきたので、今回この場でしっかり消化しておきたい。
そのために、なぜ清潔感を求められることに抵抗があるかについて考えたけれど、正直なところ、「これだ」と示せるものがない。
それでも苦し紛れに挙げてみた理由には、以下のものがある。
A. ルッキズムに対する嫌悪感が根底にある説
清潔感を「顔の作りがいい」や「スタイルがいい」の延長線上にあると考えるのならば、清潔感を求められることは、「顔の整形をしろ」「痩せて筋肉をつけろ」などと言われることに類似してくる。
だから、清潔感を求められることに抵抗がある――という考え方だ。
これは論理的ではあるけれど、納得感はいまいちだ。
なんというか、程度が違う気がする。
「清潔感を求めているのであって、整形しろとまで言ってるわけじゃない」という感じ。
B. 幼少期の個人的な経験がもとになっている説
小学生の時、僕のクラスには孤立している女の子がいた。
孤立どころか、いじめられていた。
物理的な攻撃(殴られるとか、物を隠されるとか)は無かったように思うけれど、暴言は吐かれていたし(「汚い」「臭い」等)、消極的な排除(話しかけない、話題にしない、全般的に関わらないようにしようというクラスの共通認識の存在)はあった。
そのことについて、僕は小学生なりに悩んで、親に相談した。
僕の親はそのことについて、他の子の親と相談してくれて、いくつかの考え方を僕に提示してくれた。
その中のひとつが、今思うと「清潔感」に関連していた。
ある男の子のお母さんが言うには、その子がいじめられている原因は、その女の子に清潔感がない――「不潔感がある」からだという話だった。
たしかにその女の子は髪の毛が綺麗ではなかった(これは後述するように、実際に不潔だった可能性もある)。
着ている服も古臭い感じがして、色が褪せており、しわが寄っていて、冬場に着ているセーターには毛玉がいくつもあった。
そういったものを感じ取って、子どもは遠慮なく、残酷に、言葉や態度で非難する。
彼女を異分子として排除してしまう。
したがって、いじめられている女の子の親がするべきことは、その子の髪の毛を整えて、着ている服を綺麗な状態にするべきだ。
そんな話だった。
ここで追加情報として、その子の家庭環境が分かった。
どうやらシングルマザーの家庭のようだった。
また、経済的にも貧しいらしかった。
その女の子の母親は保護者会の費用を使い込んで、トラブルを起こしたらしい(集金したお金を一時的に使ってしまっただけで、後日、給料日が来てから返したらしい)。
だから、女の子は散髪にお金をかけてもらえなかっただろうし、新しい服を買ってもらうことはなかっただろうし、もしかしたら、シャワーやお風呂に毎日入れなかったかもしれない。
それでも、仮に貧しかったとしても――。
親は、女の子の髪の毛を自ら切ってあげて、服にアイロンをかけてあげて、靴を綺麗に洗ってあげて――。
つまり、彼女に清潔感を与えるべきだろう、という話だった。
お金が無くてもできることはあるはずだ、という、かなり厳しい意見について、僕の母は、正しいとも間違っているとも言わなかった。
金銭的な余裕だけでなく、時間的な余裕も、心理的な余裕も、その女の子のお母さんには足りなかったのかもしれない。
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清潔感があろうとなかろうと、いじめをするのは悪いことである。
それは間違いない。
けれど、「清潔感がない人をいじめてはいけないこと」と、「清潔感がない人であっても恋愛対象として見ないといけないこと」とは、あまりにもかけ離れている。
理屈ではまったくその通りである。
けれど、僕の感情の部分は、その理屈を上手く受け容れられていない。
こんな感じで理屈が通じていない、理不尽なのは、僕のほうである――そういう説である。
経済的な理由で清潔感を演出できない人は、恋愛すらできないのか?
そういう屁理屈を言ってしまいたくなるくらいには、僕は、上記の理屈を受け容れられていない。
C. 「整容」という考え方のほうが、僕は好きである説
看護の分野では、「整容」という考え方があるそうだ。
大雑把に言うと、洗顔、整髪、歯磨き、爪切り、髭そり、更衣、化粧などを、病気で行えない患者さんに対して、これらの面で援助することが看護となり得る、という感じらしい。
ではこれらを実施することの理由は何かというと、患者さんの衛生面・心理的側面にプラスの作用を持つかららしい。
† †
また、どこか似ているようで異なる観点から述べると、いくつかの精神疾患では、身だしなみを整えられなくなることが、早期発見の契機になるらしい。
付き合っている彼女に清潔感がなくなったとき、僕は、その人のことを好きでなくなるのよりも、その人が何か大変な状況に置かれているのではないかと心配し、自分に出来る範囲で力になりたいと思えるような、そんな人間でありたい。
極論を言えば、お風呂を用意してあげて、身体や髪を洗ってあげて、タオルで拭いてドライヤーをかけてあげて、可愛い服を用意して着せてあげたい。
あるいは美容室に連れて行ってあげて、ネイルサロンに連れて行ってあげることができるような、そういう人間でありたい。
それを突き詰めていくと、たぶん、「清潔感があること」を、恋愛対象の条件としてはいけない、ということになる。
ただこれも、Aの議論のときと同様、結局は程度の問題で、「好きな人が、清潔感がなくなっただけで嫌いにはならない」のと「清潔感のない人を好きにはなれない」のの間には、大きな隔たりがある。
加えて自分はとうてい聖人ではないから、不潔である人を見たら不潔だと感じてしまうし、逆に、清潔である人のことを、たぶん、好ましく感じてしまう。
そこを否定するのはなんか違う気がする。
でも、そういう自分を完全に肯定するのは、道徳的に、倫理的に、間違っているような気もしている。
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結論が出ない、というのが今回の結論になる。
こうなってくると理屈というよりは、感覚に近いのかもしれない。
だとすると、「清潔感を求められることに抵抗がある」は、もしかすると、「清潔感がないと無理」と、ほとんど同じなのかもしれない。
理屈ではなく、生理的に無理。
僕が、「清潔感が無い人は無理」と言う人に抵抗を感じるのと同じように、清潔感を重んじる人は、「清潔感を求められるのが嫌だ」と言う人は無理、と感じている可能性がある。
つまり僕は、清潔感についてあれこれ持論を述べることで、推しにとって「生理的に無理」な存在となっている可能性がある。
え、なにそれ、死にたくなるな……。
もう金輪際、推しの前で清潔感について何か言うのはやめよう……。
少なくとも、推しに対して、自分の価値観を押しつけるのは、100%間違っている。
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