『私に啓示された福音』完結!
昨日、家に帰ると、郵便で、『私に啓示された福音 10下』が届いていました!ちょうど、『10中』の最後の章まで読み進めてきていました。
確認すると、最初のぶっとい『私に啓示された福音 1』が発刊されたのが、2002年のクリスマス、12月25日になっています。昨日届いた『10下』の発行日は2021年11月10日となっています。
実に、おおよそ19年かけて、イタリアの病める名もなき一女性に啓示されたこの大作が、日本語に完訳されたことになります。発刊のスピードはどんどん遅くなり、3巻目からは3分冊で上中下と順次出版されるようになり、翻訳者も3,4人入れ替わりながら。
第2次大戦がはじまったのが1939年ですから、北イタリアで病床に臥せっていたマリア・ヴァルトルタがビジョンを見せられてノートを取り始めたのは、イタリアが降伏する年の1943年。
そこから1951年までの8年間、ヴァルトルタがノートを取り続け、そこから書籍化されたのが『私に啓示された福音』でした。
その間の1945年に、日本は2発の原爆を落されて、敗戦を迎え世界大戦は終結したのでした。
今日読んでいるのはまだ『10中』最終章です。復活されたイエス様が、様々な人たちに、ご自身を表される章で、格別に長い1章になっています。
下はその1節から。
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632(六)ヤベス=ガラード近くの孤独な老人マッティアに現れる
…
老人は菜園で働きながら、独り言を言う、
「こんなにたくさん採れても、全部主のためだったのに。
もう、味わっていただくことが出来ない。働きは無駄だったか‥
もう、貧乏人の食卓についてくださることはない。…」
男は手の甲で涙をふく‥
「マッティア、旅人のトためにパンはありますか?」
マッティアはイエズスの顔を見て、手を掛け金に置いたまま動くこともできない。
「私をもてなしてくれないのですか、マッティア?」
イエズスは微笑む‥
「おお!主よ!‥わたしは‥わたしは‥
主においでいただけるような者では‥私など‥」
イエズスは中に入り、質素な菜園を進み、家の戸口で立ち止まって言う、
「では、あなたの鳩のひなを一羽、犠牲にしてください。
菜園からの野菜とはちみつも。
いっしょにパンを食べましょう。
あなたの働きは無駄でなかったことになります。
あなたの願いも満たされます。
ここはあなたにとって大事な場所になるでしょう。…
マッティア、私はどこにでもいます。
わたしを愛する人はわたしと共にいます。」
…
老人は忙しく立ち働くが、その立ち居振る舞いは、まるで教会の奉仕をしているときのように恭しい。微笑みつつも、ときどきあふれる涙をぬぐう。
鳩のひなを取りに行き、絞めて調理し、火をかき立て、野菜を摘んで洗い、早生の無花果を皿に載せ、テーブルに最上の皿とともに置く。
だが全部準備ができても、とても着席して食べる気にはなれない。
給仕させていただくこと以外、考えられない。
だが、イエズスは食べ物を捧げて祝福すると、鶏肉を半分に切り、肉汁に浸したパンに載せて勧める。
「おお、お気に入りの方になさるように!」
と老人は言い、喜びの涙を流しながら食べる。
その間にもイエズスから目を離すことが出来ない。
イエズスは、食べ…飲み、野菜、果物、はちみつを味わい、ぶどう酒を一口飲んで、その杯を老人に差し出す。以前のイエズスは常に水を飲んでいたが。
食事は終わった。
「わたしは本当に生きています。わかったでしょ。
あなたはとても幸せそうです。
思い出しなさい、12日前、私は人間たちの意志によって、死のうとしていました。
けれども、神のご意志に認められなければ、人間の意志などありません。
そればかりでなく、逆らう人間たちの意志は、永遠の意志から責められる道具になります。
さようなら、マッティア、
前に言いましたが、私がだれからも疑われる旅人だった時に、私に飲み物をくれた人は、私と共にいるでしょう。
あなたに言います、あなたは、私の天の国に参加するでしょう。」
「でも、もう、行ってしまわれるのでしょう、主よ!」
「すべての旅人の中にわたしを見なさい。
すべての物乞いにわたしを。
すべての病人にわたしを。
パン、水、衣服を必要とするすべての人にわたしを。
苦しむ人の中にわたしはいます。
これらの人にしてあげたことは、私にしてくれたことになります。」
イエズスは腕を広げて祝福し、いなくなる。
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全10巻で652章に及ぶ大部の『私に啓示された福音』のなかでも、この632章は格別に感動的です。
マッティアへのイエス様の顕現、そして別れの言葉を読んで、冷酷人間の私が、おいおい泣いていました。
復活したイエス様にわたしも会いたいという内から湧いてくる望みと、いままで会った人たちを通してイエス様が私に訪れてきてくれていたんだという、申し訳なさ、畏れ多さ、恥じ入るような、悔いるような、複雑な思い、とりわけ、私の仕事ですから、
すべての病人にわたしを
というところで、内から湧いてくる思いに覆いつくされてしまいました。
なんと申し訳ないと頭を垂れる思いに。
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