結婚と死後

一番安全な結婚は次のような道行だと思います。まず性愛が浄化されて、聖霊のバプテスマを受けて、それからしばらくして、イエスさまからこの世での結婚をあきらめてくれますかと迫りを受けて、はい、お捧げしますと答えして、もはや、どんな女性にも心動かされない、どんな女性に対しても、この女性が自分の伴侶だろうかという思いが一切なくなったそのうえでこれがお前の伴侶であると啓示を受けて進む結婚。


主にすべてをささげ、ただ主の啓示だけにしたがって(その啓示についても、本当にイエス様からのものか、悪魔や自己愛からのものではないかと何度も検証が必要です)結婚を受け入れた場合でも悲哀を受けるわけですから、私たちが結婚の不幸な面を受けるのは当然かと思います。

私は主の啓示も、聖霊のバプテスマも待ちきれないまま、結婚に進んでしまいました。すでにクリスチャンだったし、教えも受けていたのに。

捕った魚にエサはやらぬ、よろしく(捕られた魚は私の方です)、結婚して、とくに子供が生まれてからは、我が道を行くです。
それでも、礼拝だけは出てくれています。フッ素加工の調理具も、いつのまにかしまわれていました。それまでは、私のだけ鉄鍋、ステンレス鍋で調理して、自分と息子は軽くて丈夫で使い勝手のいいジャパネットたかた鍋でした。他にも、キャラメルコーンをミルクに浸して食べるというのが母子の習慣だったのですが、トップバリューのオーガニック・コーンフレークに変わってたり、先ほどの「我が道を行く」は言い過ぎで、家内なりに、私に合わせようとは部分的にしているのは確かですが、私は全面的に私に近づこうと努力してくれると、勝手な都合の良い夢物語を、通例のこととして思っていたのでした。


カトリックの人は離婚が禁じられているといわれますが、聖書で禁じられているのは再婚です。離婚は条件付きで消極的に認められています。相手の不貞という理由で(暴力も私は不貞の内と思っていますが、明確な啓示を受けたわけではありません)。

一方で、再婚についてははっきりと禁止されています。それは姦淫であると。バツイチの女性とでも、カトリック信者は、キリスト者は結婚してはいけないのです。
いまや、カトリックの人たちも普通に離婚、再婚を繰り返していますし、クリスチャンに広げてをや何をか言わんです。
たしかに、精神科に来る患者さんたちの多くは親の再婚での犠牲者です。再婚さえなければかなりの人たちがもっと幸せにくらせるようになるということについて私は疑えません。


イエスさまは「神が合わせられたものを人が離してはならない」と離婚を御心ではないと断言されましたが、果たして、自分のした結婚が「神が合わせられた」ものだったのか?というとはなはだ疑わしくなることが、誰しもあるのではないでしょうか。

そして、スエデンボルグは、死後、夫婦であっても霊性が異なる場合は、次第に内なるものが現れてきて、お互いにそれぞれに合った霊の世界に移ってゆき、夫婦としては過ごさず、それぞれに定められた本当の相手と出会って(天界に昇る例の場合)一体の天使となると報告しています。

『結婚愛』「結婚した夫婦の死後の状態について」(45-56節)スヴェーデンボリ より

1.結婚した多くの者は夫婦は死後どうなるか知りたいと願う
2.性愛は死後も人間各々のもとに、それが世で内的にその人間の内的な意志と思考との中に持っていたような性質をもって存続している
3.人間は死後外なるもの(外なる人)を捨てて内なるもの(内なる人)となる、性愛は内なるもの(内なる人)の中に止まる
4.性愛と同様結婚愛も、それが世の人間の内的な意志と思考の中に持っていた性質をもって死後も存在している
5.性愛は多く異性に対する愛だが、結婚愛は只一人の異性に対する愛


6.結婚した夫婦は普通死後再び会い、互いに他を認め、しばらく共に生活する
7.夫は妻にめったに気づかないが、妻は夫に気づく
8.徐々に彼らは外なるものを脱ぎ去って内なるものへ入るに連れ、互いに他に対し抱いていた愛と傾向の性質を認め、共に生活することが出来るか否かを認める
9.もし彼らが共に生活することが出来るなら夫婦として止まる。それが出来ないなら夫が妻から、あるいは妻が夫から、時には互いに他から離れ去って行く
10.そしてふさわしい相手が与えられる
11.結婚した夫婦は互いに世にいたときの交わりよりも更に楽しい、祝福された、しかし子を生まない交わりを得る。子を生むことに代って、愛と知恵の霊的な子供たちを生む
12.天界の結婚は繁殖[子を生むこと]なしに存在している。それに代って霊的な繁殖があり、それが愛と知恵の繁殖である理由

13.天界に入る者たちはこのようになっているが、地獄に入る者らは異なっている
14.単に自然的なものである結婚した夫婦はすべて死後引き離される
15.一人は霊的なもの、他の一人は自然的なものである夫婦もまた死後引き離される。霊的な者には霊的な配偶者が与えられ、自然的な者は淫欲の巣窟の中のその者に似た者のもとへ送られる

16.世で未婚のまま生活し、心を全く結婚から遠ざけてしまった者は、もしその者が霊的なものであるなら一人のまま止まる。しかし自然的なものであるなら娼婦漁りとなる。結婚を求めたが成功しなかった者は異なる。その時彼らが霊的なものなら祝福された結婚が与えられる。しかしそれは彼らが天界に入らない中は与えられない
17.修道院に閉じ込められている処女たちと男はしばらくすると釈放されて自由に振舞い、結婚生活に入ることを欲する欲しないに拘らず、その願い求めている自由を得ることが許されている。もし彼らが結婚を願うなら結婚し、もし願わないなら天界の脇で独身生活を送っている者たちのもとへ連れて行かれる。しかし禁じられた色情で燃えている者らは投げ落とされる
18.独身者が天界の脇にいる理由
19.(説話1)貞潔な性愛について
20.(説話2)知恵の殿堂で、賢人たちが女性の美の原因について論じたことについて
・あとがき


サンダーシングも興味深い報告を残してくれています。

ジュネーブの科学者 

サットンという名のあるジュネーブの科学者は、神の存在を否定していた。彼は、命と魂は同一なので、死後の命のようなものは存在しないと信じていたのである。 

ところが、不思議なことに、この人の妻は大変に敬虔な宗教者で、母の感化を受けて育った子供たちもまた、母同様に宗教的で、神を恐れる性格だった。妻と子供たちは、よく家族会議を開いては、夫に神の存在を信じさせようとしたが、サットン一人が彼らの話を笑い飛ばし、迷信深い愚か者よ、とみなを蔑んでいた。 

さて、サットンの妻と子供たちはみな、一人一人死んでいった。二、三年後に、サットンにも死期が迫った。彼の信じているところによれば、死後の生命は存在しない。そこで、臨終が近づくと、最後の息を引き取れば自分は存在しなくなると彼は考えた。 

だが、この世を去るや否や、住んでいた体は確かに後に残したが、自分自身はもう一つの世界に移行したことを知って驚いた。このときに、生前、死後に天国があるのだとしきりに自分に説得していた、妻と子供たちのことを考えた。 

妻子のことを思うが早いか、眼前に全員の姿が現れた。だが、自分と彼らとの間に大きな淵があり、両者は互いにはっきり見たり、聞いたりできるにもかかわらず、この巨大な淵を超えて行き来できないことを知り、非常な失望を覚えた。 

輝かしく、幸せそうな状態にある妻と子供たちを見、それを不愉快で汚れた自分自身の状態と較べるにつれ、涙がこみ上げ、彼は激しく泣き出した。そのとき、妻のサットンが声をかけた。 

「ああ、愛するあなた、あなたは私の死を悲しみ、何日も嘆いていました。でも、ベッドの上で申し上げなかったでしょうか。私はもう一つの生に移るだけで、いつかまた会うのですと。しかし、あなたは私の言葉を信じず、ご自分の考えに固執されたのです。今、私たちは永遠に別れてしまいました。あの別れは一時のものでしたが、この別離は永遠なのです」 

愛する妻の唇からこの言葉を聞いて、サットンは自分の場所から飛び出し、妻のところに至ろうとした。だが、私は、妻に近づこうとすればするほど、彼がいっそう深く下に沈み、その一方で、妻子は悲しげに彼に背を向け、もと来た天へと歩き出すのを見た。 

罪深い肉親が地獄の苦しみにあえぐのを見れば、天国にいる神のしもべは非常に悲しく惨めな気持ちになるのではないかと、考える人もいるであろう。だが、そうではないことを理解できるよう、サットンと、彼の妻子についてさらに話を続けよう。妻と子供たちは、もと来た天への道を引き返すにつれ、サットンの運命にひどく胸を痛めた。そこで、天国の門をかいくぐる前に、このように神に訴えた。 

「ああ、神様。私の夫が地獄の苦しみと処罰に定められているというのに、天国でどんな歓びがもてるというのでしょうか」 悲しみの訴えに何も答えが返されぬまま、彼らは天の住まいに静かに導かれた。だが、天国に入るや否や、彼らは肉親のことをすべて忘れ、悲しみに出会ったことが一度もないかのように、歓びに浸り始めた。天国の大気そのものが、苦しみと悲しみから除かれているのである。 

サタンの子らは、神の子らに何の関わりももたない。前者は、苦しみと永遠の死以外、何ものももってはいない。一方、後者はどんな悲しみも問題ももたず、天の自由の中で歓びに浸るからである。


膨大な預言・予見があり、それが今私が手にできるものとしては4冊の冊子になっています。

その中に、教会、日本、世界、宇宙の救いの経綸についても書かれていますが、それによると結婚愛の完成が重要な要素として述べられています。果たして、これからどうなっていくのか、神のみぞ知るですが、これについてもまた、私たちは自分たちの救いを求めて日々、悔い改めていくしかありません。

そのために、結婚という人間関係は祈っても祈っても尽きない祈りの課題の宝庫ですね。

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